SJCの結党
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1963年に即位したシッキム王国の第12代国王パルデン・トンドゥプ・ナムゲルは、シッキムがインドの保護国と見なされていることに不満を抱き、反印・シッキム独立の政治路線を取っている。また国内的にも、ネパール系主体の政党で親印や民主主義制度導入を主張するシッキム国民会議派(SNC)を敵視し、これに弾圧を加えたり、策動をめぐらして内部分裂をもたらしたりしていた。 1970年のシッキム王国参事院(State Council、立法府に相当)の第4回選挙(選挙議席18)では、SNCが上記原因で混乱したために5議席に留まった。一方、原住民・支配階層ながら少数派であるブティヤ・レプチャ系のシッキム国民党(SNP)とネパール系のシッキム国家会議派(SSC)の親王室派2政党は、それぞれ7議席、4議席を獲得し、親王室派が勝利したのである。この選挙の勝利もあって、国王が望む反印やシッキム独立の運動は更に激化することになり、その一方でSNC総裁カジ・レンドゥプ・ドルジが自党の国王批判につき扇動罪に問われてインドへ亡命、SNCは党勢を大きく削がれた。 ところがこれらの情勢は、支配階層たるブティヤ・レプチャ系住民へのネパール系住民の恐怖を掻き立てるものでもあり、そして親王室派だったSSCもこの種の恐怖感を抱いた結果、ついに結党当初の反王室路線へと回帰していく(SSC結党の経緯については当該記事を参照)。ここでSSCは、同じネパール系の政党であるシッキム人民党(SJP)に呼びかけ、1972年8月15日に両者は合併、シッキム人民会議派(英語版)(SJC)を結成したのである(正式発足は10月26日)。党総裁にはクリシュナ・チャンドラ・プラダン(Krishna Chandra Pradhan 通称「K. C. プラダン」)が就任した。これにより、シッキムにおいて有望な反王室政党が出現することになった。SJCの指導者たちはシッキム各地を遊説し、ブティヤ・レプチャ系の脅威に備えるべくネパール系の武装化を唱導したのである。その一方でSJCは親印のSNCとは異なり、インドこそがシッキムにコミュナリズムを持ち込んでシッキムの民主化を阻害したと批判するなど、反印的な姿勢を示した。
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