SJCの結党とは? わかりやすく解説

SJCの結党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/07 15:06 UTC 版)

シッキム人民会議派」の記事における「SJCの結党」の解説

1963年即位したシッキム王国第12代国王パルデン・トンドゥプ・ナムゲルは、シッキムインド保護国と見なされていることに不満を抱き、反印・シッキム独立政治路線取っている。また国内的にも、ネパール主体政党で親印や民主主義制度導入主張するシッキム国民会議派SNC)を敵視し、これに弾圧加えたり策動めぐらして内部分裂もたらしたりしていた。 1970年シッキム王国参事院State Council立法府に相当)の第4回選挙選挙議席18)では、SNC上記原因混乱したために5議席に留まった。一方原住民支配階層ながら少数派であるブティヤ・レプチャ系のシッキム国民党(SNP)とネパール系のシッキム国家会議派SSC)の親王室派2政党は、それぞれ7議席、4議席獲得し親王室派が勝利したのである。この選挙勝利もあって、国王が望む反印やシッキム独立運動は更に激化することになり、その一方でSNC総裁カジ・レンドゥプ・ドルジ自党国王批判につき扇動罪に問われインド亡命SNC党勢大きく削がれた。 ところがこれらの情勢は、支配階層たるブティヤ・レプチャ系住民へのネパール住民恐怖掻き立てるものでもあり、そして親王室派だったSSCもこの種の恐怖感抱いた結果、ついに結党当初の反王室路線へと回帰していく(SSC結党経緯については当該記事参照)。ここでSSCは、同じネパール系の政党であるシッキム人民党SJP)に呼びかけ1972年8月15日両者合併シッキム人民会議派英語版)(SJC)を結成したのである(正式発足10月26日)。党総裁にはクリシュナ・チャンドラ・プラダン(Krishna Chandra Pradhan 通称K. C. プラダン」)が就任した。これにより、シッキムにおいて有望な王室政党出現することになったSJC指導者たちはシッキム各地遊説し、ブティヤ・レプチャ系の脅威備えるべくネパール系の武装化唱導したのである。その一方でSJCは親印のSNCとは異なりインドこそがシッキムコミュナリズム持ち込んでシッキム民主化阻害した批判するなど、反印的な姿勢示した

※この「SJCの結党」の解説は、「シッキム人民会議派」の解説の一部です。
「SJCの結党」を含む「シッキム人民会議派」の記事については、「シッキム人民会議派」の概要を参照ください。

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