RANUとは? わかりやすく解説

RANU

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 03:58 UTC 版)

「ルワンダ愛国戦線」の記事における「RANU」の解説

1979年のアミンの失脚の後、ツチの知識階級の難民たちは初めての政治的難民団体、国民統一ルワンダ人同盟 (Rwandese Alliance for National Unity, RANU) を設立、ルワンダへの帰還を話し合うようになる。RANUは当初は知的協議のためのものであったが、オボテが1980年の不正な選挙で大統領に再任した後、多くのツチ難民はウガンダ・ブッシュ戦争においてムセベニ側について戦うなど、急進的になっていく。結果、オボテは国民抵抗軍 (NRA) がバニャルワンダで構成されていると非難した。1982年、全てのツチ難民をキャンプに押し込めようとする計画が失敗し、4万人の難民がルワンダに戻った。しかしルワンダ側はその中の4千人だけがルワンダ人であるとし、一方ウガンダ側は1万人だけの受け入れを認めた。結果として残った3万5千人は法的に曖昧なまま何年もの間国境付近に留め置かれ、多くの若者たちがNRAに参加した。 1981年、カバンバのウガンダ軍兵営を急襲してゲリラ戦を始めたNRAの27名のメンバーのうち、2人がツチであった。その2人はフレッド・ルウィゲマとポール・カガメである。2人はカフンゲの難民キャンプで共に育ち、RANUのアクティブなメンバーであった。1986年、勝利を収めた NRAがカンパラへ入った際、戦闘員の約1/4にあたる16000名がバニャルワンダであり、ルウィゲマは副司令官であった。ムセベニ政権樹立後、ルウィゲマ は国防副大臣兼軍副総司令官に任命され、実質ムセベニに次ぐ地位に就いた。カガメは軍情報部の長官に任命された。ピーター・バインガナはNRAの医療サービス部門の長に、クリス・ブニェニェジは306旅団の司令官に任命されるなど、他のツチ系難民も高い地位に就いた。ツチがNRAの中で多くの主要な位置を占めた理由は、早い時期から彼らが抵抗軍に参加しており、経験が豊富だというものであった。 この戦いにおけるバニャルワンダの貢献は新政府に認められた。ムセベニが政権を取った6ヵ月後、10年以上ウガンダに住んでいるバニャルワンダには市民権が与えられると宣言した。1987年12月、RANUはカンパラで7回目の総会を開き、その名前をルワンダ愛国戦線 (RPF)と変えた。新しいRPFはバニャルワンダの退役軍人で占められており、RANUよりもずっと軍事的であった。

※この「RANU」の解説は、「ルワンダ愛国戦線」の解説の一部です。
「RANU」を含む「ルワンダ愛国戦線」の記事については、「ルワンダ愛国戦線」の概要を参照ください。

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