MGM以降
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キールは元々活躍していた舞台に戻った。1957年、短期間で閉幕した『回転木馬』再演に出演した。1958年、スリラー映画『大洪水 (1958年の映画)(英語版)』がイギリスで制作された。1960年、ハリウッドに戻り、聖書映画『聖なる漁夫(英語版)』でシモン・ペトロ役を演じた。1959年から1960年、短期間上演されたブロードウェイ・ミュージカル『Saratoga』に出演した。1961年、ヨーロッパに渡り低予算戦争映画『機甲兵団 (1961年の映画)(英語版)』に出演した。1962年、イングランドで『人類SOS!』に主演した。 アメリカのエンターテイメントの傾向が変化し、キールが役を得るのはより困難になっていった。1960年代、キャリアアップの見込みがなく、ナイトクラブでの勤務、B級西部劇、夏休み期間の若年層向け舞台などが主な仕事となった。1962年および1966年、『回転木馬』に出演した。1962年、ブロードウェイ『No Strings』においてリチャード・カイリーの後継となった。A.C.ライルズのプロデュースによる西部劇『渡り者 (1966年の映画)(英語版)』(1966年)、『Red Tomahawk』(1966年)、『アリゾナの勇者(英語版)』(1968年)の3作に主演した。1967年、ジョン・ウェイン主演の西部劇『戦う幌馬車』で助演した。 1970年初頭、キールは25歳年下でキールがスターであったことを知らないジュディ・マガモルと出会った。数年後、キールはジュディに一目惚れしていたことを明かしたが、年齢差が気になり大いに躊躇していた。ジュディにとっては問題なく、ロバート・フロストの詩『What Fifty Said』を参照して関係性を深めるようキールを説得した。ジュディと結婚したキールはナイトクラブやキャバレーの仕事を再開し、夏休みの若年層向け舞台にも再び出演するようになった。 1971年から1972年、キールは短期間ウェスト・エンドおよびブロードウェイにてミュージカル『Ambassador』に出演したがヒットしなかった。1974年、娘レスリー・グレイスが誕生し、4人の子の父親となった。1986年1月、2回の冠動脈大動脈バイパス移植術を受けた。
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