JBスポーツジム
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住居ならびに知己であり開設されたばかりであった高橋直人のJBスポーツジムを紹介してもらう。同ジムのオーナーが、「はじめの一歩」の作者である森川ジョージであることを知るのは、ジムに入ってからであった。当時は身長168cmながら体重65kgもあり必ずしもボクサー向きの体型ではなかった。 1994年12月5日、プロデビュー戦に3RTKO勝ちを収めた。次戦からは2連敗を喫した。 山田武士トレーナーとコンビを組み1998年と翌年のフィリピン、タイ選手との戦いで才能が開花。スーパーバンタム級新人王北島桃太郎をこの試合で初めて見せたハメド・スタイルで10R判定に下すと、2000年2月14日に日本スーパーバンタム級王者真部豊に挑み、10R判定で下し20戦目にして初の王座を獲得。真部はこの試合を最後に引退した。 同年5月に初防衛成功したが同年7月15日、瀬川設男に10R判定負け。その後は世界戦に向け、試合を重ねた。 2002年8月24日、WBC世界スーパーバンタム級暫定タイトルマッチでオスカー・ラリオス(メキシコ)に挑戦。同タイトルマッチの諸費用は全て森川ジョージが用意し、彼が連載する週刊少年マガジンでも特集ページが組まれるなど負けられない一戦となったが8RTKO負けとなった。 その後1戦し6RKOの後、2003年4月26日、鄭在光とOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座決定戦を行い終始危なげない試合運びで、12R判定勝ちし王座を獲得した。 2003年8月16日、ペドリト・ローレンテと行うも12R判定で敗れ初防衛に失敗し王座から陥落した。 2005年6月4日、WBA世界バンタム級タイトルマッチで王者ウラジミール・シドレンコに挑戦予定だったが、シドレンコの右手親指骨折のため延期となった。同年10月15日、延期となっていたシドレンコとのタイトルマッチを予定していたが、自身の右ふくらはぎ筋断裂により中止となった。 2007年5月5日、池原信遂に0-3の判定負け。その後花形ボクシングジムへ移籍。
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