COHAの失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 18:14 UTC 版)
当時の『アジア動向年報』ではCOHAをメガワティ政権初の政治的成果と評価されたが、アチェ駐留軍は協定を無視してGAMの掃討作戦を継続、GAMも政府との対話路線を捨てて武力衝突が続いた。2003年3月には和平合意により治安維持を担当していた合同治安委員会 (JSC) の地方事務所が住民により襲撃された。GAMはこれを国軍主導によるものだと主張したが4月1日、ユドヨノ政治治安調整大臣はこれをCOHA違反だとみなし、COHAに基づき1カ月以内の合同協議開催を要求した。GAMは4月25日から2日間ジュネーブで合同協議を行うことに一旦は合意したものの、直前に2日間の延期を求め中央政府は合同協議参加を取りやめた。メガワティ大統領は5月12日までにアチェ特別自治法を受け入れ武装解除をするようGAMに最後通牒をしたが、GAMはCOHAでは対話の出発点として特別自治法を認めただけであり特別自治法そのものを受け入れたわけではないとして要求を拒んだ。5月6日、メガワティ大統領は合同協議開催に応じなければ統合軍事作戦へ移行する意向を固め、警察はJSCに加わっているGAMメンバー4人を州外に出る報告を怠ったとして逮捕した。だが、GAMは5月12日時点で合同協議開催に応じず、JSCはフィリピン軍、タイ軍のメンバーも撤退したことで事実上解体に至った。 ここで国際連合事務総長が先進国に働きかけ、東京で交渉が行われることになった。日本と米国は17日、18日の東京での合同協議開催についてインドネシア政府とGAMの承認を取り付けた。16日には日本に出立しようとしていた協議参加予定のGAM幹部5人がアチェで逮捕されGAMが釈放を要求する事態となったが、インドネシア政府はそれを受け入れ、「アチェ復興に向けた国際支援国会議」が開催された。この会議にはスウェーデンのGAM、インドネシア政府の他、日米両政府、アンリ・デュナン・センター、EU、世界銀行が参加した。だが、交渉ではインドネシア政府がGAMに武器の6割を国家警察に提出することなどを要求し、この交渉は決裂した。5月19日、メガワティは6カ月の軍事非常事態を宣言し、人道支援、法執行確立、行政改善、治安維持の4分野にわたる統合軍事作戦を開始した。国内メディアにはGAMの発表を報道するのを自粛するよう軍管区司令官から要請が出され、6月16日、翌月の6月、メガワティは大統領令を発令して外国人、NGO、ジャーナリストのアチェ州への移動を規制し、NGOとジャーナリストの活動を制限した。軍事非常事態宣言は11月6日に6カ月間の延長が閣議決定され、アチェ軍事作戦本部の発表によれば12月までにGAM兵1000人が死亡し2000人が逮捕されたというが、他方で中央政府は計2兆7千億ルピアの予算をこの件に費やし国軍兵士3万5千人警官1万4千人を派遣したにも関わらず、GAM幹部を逮捕することはできなかった。軍事非常事態宣言は2004年5月に解除されたものの、大統領令により民間非常事態とされ武力抗争はさらに継続した。
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