7,000メートルを越える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/19 22:18 UTC 版)
「登山における最高到達高度の記録」の記事における「7,000メートルを越える」の解説
測量技師ではなく純粋な登山家として初めてヒマラヤに登ったのは、イギリスの弁護士ウィリアム・グラハムとスイスのホテル経営者エミール・ボス、スイスの山岳ガイドのウルリヒ・カウフマンである。彼らは1883年にヒマラヤの様々な地域を登った。数ある中でも特に挙げられるのは、ガルワール・ヒマラヤのドゥナギリ(英語版)の標高6,900メートル地点に到達、チャンガバン(英語版)(6,864メートル)登頂、カンチェンジュンガの南にあるカブルー北峰(7,338メートル)の山頂10メートル下まで到達、などである。しかしその登頂の多くは疑われている。彼らが嘘をついたというわけではなく、地図の不明瞭さによって、実際にどの山に登ったのかが不明確になり、科学的な計測よりも希望的観測によって標高を推定していた、とされる。チャンガバンの記述は実際の山と矛盾しており、すぐに疑われて1955年までに真面目に受け取られることはなくなった。 しかしカブルー北峰についてはすぐに却下されることはなかった。特に矛盾点はなく、1994年のアンスワースの記事や2009年のブレイザーの記事ではグラハムの登頂を疑うところはないとしている。もし彼らが実際にカブルーに登っていたとすると、その後26年間破られなかった高度記録を打ち立てたことになる。 9年後の1892年に、別の到達高度記録がマーティン・コンウェイによって主張された。マティアス・ツルブリッゲンとチャールズ・グランヴィル・ブルースと共に、コンウェイはバルトロ・カンリ(英語版)を登り、「パイオニア・ピーク」と名付けた衛星峰に登頂した。気圧計は22,600フィート(6,900メートル)を示しており、コンウェイは7,000メートル 以上(23,000フィート)に四捨五入して切り上げた。しかしこのピークはその後の測量によると6,499メートルにすぎなかった。 1897年にツルブリッゲンはガイドとしてアコンカグア(6,962メートル)の初登頂に成功した。顧客が途中で登れなくなったので頂上では単独だった。グラハムたちの登山を除くと、当時の最高地点に到達したことになる。 7,000メートルの壁が破られるにはあと数年を要した。1905年7月にトム・ロングスタッフとガイドのブロシュレル兄弟、6人の現地人ポーターは、グルラ・マンダータ(英語版)(7,694メートル)に挑み、アコンカグアより高い7,000メートルから7,300メートルの地点まで到達した。 1907年にロングスタッフとブロシュレル兄弟はヒマラヤに戻り、6月12日にグルカ兵のカルビル・ブラトキと共にトリスル(英語版)(7,120メートル)に登頂した。トリスルは疑惑なしで登頂された初めての7,000メートル峰となった。 数ヵ月後の1907年10月20日に、ノルウェーのカール・ルーベンソンとモンラード・アースは、7,338メートルのカブルー北峰の山頂から50メートル以内まで達した。グラハムたちが24年前に実際にカブルーに登頂していたと、ルーベンソンが後に信用したことは注目に値する。 疑いのない到達高度記録は、1909年にアブルッツィ公によって更新された。K2遠征に失敗した後、アブルッツィ公はチョゴリザ(7,665メートル)に転進し、山頂から150メートル下の7,500メートル地点まで到達した。しかし濃霧のためそれ以上は進めなかった。 疑いのない登頂記録は、1911年6月14日に8メートル更新された。スコットランドの化学者・探検家・登山家のアレクサンダー・ケラスとシェルパのソニーと「トゥニーの兄弟」は標高7,128メートルのパウフンリ(英語版)に登頂した。しかし20世紀末までこの山の標高は7,065メートルだと考えられており、当時は記録を打ち立てたと認識されていなかった。
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