2種類の写本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 15:18 UTC 版)
『原初年代記』の初版は失われていて、現在発見されている最古の転写は「ラヴレンチー写本」および「イパーチー写本」である。よって初版の内容を単語単位で構築するのは難しい。 「ラヴレンチー写本」 (Laurentian codex) ニジニ・ノヴゴロドの修道士ラヴレンチーがスーズダリ、ニジニ・ノヴゴロド公ドミトリー・コンスタンチノヴィチ(en)のために1377年に転写したものである。彼が使用したオリジナルは1305年トヴェリ大公ミハイル・ヤロスラヴィチのために編纂された写本でそれは現在失われている。年代記の記載は1305年まで続くが、899から922年、1263から83年、また1288から94年までの間の記載はなんらかの理由により除かれている。写本は1792年に有名なムシン・プーシキン伯爵(en)が入手し、後にサンクトペテルブルクにあるロシア国立図書館へ贈呈された。 「イパーチー写本」 (Hypatian codex) ロシア人歴史家ニコライ・カラムジーンがコストロマにあるイパーチー修道院(en)で発見したものである。日本では写本が発見された修道院の名にちなむ「イパーチー写本」と呼ばれることがほとんどだが、海外ではHypatian codexとよく呼ばれる。「イパーチー写本」は15世紀に編纂されたものであるが、失われた12世紀の『キエフ年代記』および13世紀のハールィチ年代記から多量の貴重な情報を取り込んでいる。写本に書かれている言語は教会スラヴ語の東スラヴ風で、多くの不規則な東スラヴ的な表現を含んでいる(当時東スラヴで編纂されたほかの写本と同じように)。 『原初年代記』は歴史上最も徹底的に研究された文書の一つかもしれない。多数のモノグラフが書かれ、いくども刊行された。その最初は1767年に遡る。1908年にはアレクセイ・シャフマトフが年代記に対する先駆的なテストロジカルな研究を出版した。その後ドミトリー・リハチョフ(en)やその他のソ連の史学者はそれを部分的に修正した。彼らはネストル以前の11世紀中期、ヤロスラフ賢公時に宮廷で編纂された年代記を復元しようと試みた。
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