2つの法案と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 07:09 UTC 版)
「ウィルフリッド・ローリエ」の記事における「2つの法案と敗北」の解説
1907年の植民地会議(後に帝国会議と改称)では、イギリスは自由党政権となり、帝国内での個々の植民地の自立強化が促された。これにより、個別の海軍と外務省の設立が求められるようになった。 これに伴いローリエは、1908年の当選後は2つの法案の通過に重点を置いた。最初の法案はカナダ海軍法案で、1910年に提出され、5隻の巡洋艦と6隻の駆逐艦を備えたカナダ海軍の創設案だった。この海軍は世界中どこでもイギリスと一緒に戦う準備があったが、イギリス系住民からは「こんなちゃちな海軍を持つよりは、本国にドレッドノート級戦艦2隻を寄贈したほうがいい」との批判を受けた。そのためジョゼフ・パピノーの孫でフランス系ナショナリストのリーダー、アンリ・ブーラサ(英語版)は「イギリス本土が攻撃されでもしない限り協力は拒否」と主張した。中庸な姿勢を取り続けたため、ローリエの支援は高くつくものとなった。特にケベックではそうだった。一方外務省は、オタワのバンクストリートの床屋の2階で産声を上げた。 2番目の法案は、アメリカとの互恵関係に関連するものだった。アラスカ国境紛争以後実現不可能となっていたが、1910年に第一次産業製品をほぼすべて免税、製造品での免税を鉄鋼と有刺鉄線のみにすることで話がついた。しかし、互恵の拡大や競争激化への不安が広がり、企業家や農民たちの怒りを買う破目になった。これらの案件を成立させるために、ローリエは庶民院を解散し、総選挙を実施した。1911年9月21日、彼は苦い敗北を味わうこととなった。
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