1994年メキシコ通貨危機
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「メキシコ」の記事における「1994年メキシコ通貨危機」の解説
1986年関税および貿易に関する一般協定(GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点はアジア通貨危機直前の状況と似ている)。その結果、輸入が急増し輸出は不振となり、貿易赤字が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、北米自由貿易協定が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い労働力を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。 しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で先住民による武装反乱が発生。3月には大統領選挙の候補が暗殺された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、カントリーリスクの懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。 その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。
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