1985 - 1987
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「ブルン・モータースポーツ」の記事における「1985 - 1987」の解説
1985年、ブルンはポルシェ・962Cを1台追加した。チームはインターセリエ-DRMの複合シリーズを席巻し始め、5勝を挙げ、ハンス=ヨアヒム・スタックがドライバーズランキングでヨーストのヨッヘン・マスに次ぐ2位になった。しかしながら、チームは世界選手権では勝利を挙げることができなかった。ムジェロで3位、ホッケンハイムで2位を獲得したが、チームは完走することにも苦しみ、チームランキングは6位に終わった。また、このシーズン中にはスパ1000キロでベロフを死亡事故で失うという大きな損失もあった。 1985年より、ブルンは1986年に向けてチームを拡張し始めた。1986年のためにブルンはさらに2台の962を購入し、そのうち1台は北米のIMSAシリーズに参戦するためだけに使用された。IMSAには5レースのみの参戦に留まったが、ワトキンスグレンではチャンピオンのアル・ホルバートに次ぐ2位でフィニッシュすることに成功した。ヨーロッパでは世界選手権に取り組み、前年はリタイアに終わったル・マン24時間レースで2位を獲得した。1986年の最初の勝利はヘレスで記録し、その後スパでも勝利を収めた。この年のブルンは、チーム選手権が掛けられた5レースでは1勝に終わったが、4レースでポイント獲得し、ジャガーとポルシェの両ワークスチームを破り、チームタイトルを獲得した。ブルンはインターセリエのエステルライヒリンク戦で勝利を挙げ、成功したシーズンを締めくくった。 1987年の開幕では好成績を残し、デイトナ24時間レースで2位を記録した。しかしながら、世界選手権ではジャガーが徐々に優勢になり、ドイツスーパーカップ(en)でブルンは苦戦を強いられた。このシーズン、ブルンは何度か競争力を発揮したものの、初めて無勝利に終わった。一貫した成績を残したブルンは、タイトルの連覇こそ逃したが、ポルシェを使用する数多くのチームを退け、ジャガーに次ぐ選手権2位の成績を収めた。
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