1982年2月 アンドレエフ湾原子力事故(英語版)
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「原子力事故」の記事における「1982年2月 アンドレエフ湾原子力事故(英語版)」の解説
ムルマンスクのソビエト連邦海軍の使用済核燃料貯蔵プールにて、厳冬期の貯留水の凍結融解に起因する第5プールの亀裂から汚染された貯留水の漏出が始まった。第5プール付近のガンマ線が急激に上昇した事から事態の発生がソ連海軍に把握されたが、ソ連海軍は当初はプールの破損はピンホール程度で、検出される線量から漏出も日量30リットル程度と判断し、小麦粉をプールに投入するなどの手段でしか対処が行われなかった。その後ガンマ線量が急激に増加していった事でソ連海軍は現場にリクビダートルを投入する事を決定。4月にはプールの建屋の地下部分600平方メートルをコンクリートで埋め固めたり、貯留水を凍結させる方法なども試されたが、ほとんど効果が無かった。9月には漏出は日量30トンまで増加し、使用済核燃料が空気中に露出する危機が迫ったが、リクビダートルたちはプールの金属ケースの周囲を鉄・鉛・コンクリートの混合物で覆い尽くす手法で1983年2月14日に漏出を完全に停止させた。アンドレエフ湾への汚染水の総漏出量は77万トンに達した。その後プール内の1500本の使用済核燃料容器は1989年12月13日までに全量がマヤークに搬出された。公式には一連の事態における死者や負傷者は記録されていないが、リクビダートル達の回想では使用済核燃料容器の搬出作業中に1名がプールに転落し、救出の為にもう1名がプールに飛び込んで大きなベータ線被曝を受けた事や、容器の搬出作業中腐食や損傷などで容器内の高レベル放射性廃液がしばしば外部に漏出し、その度にチェレンコフ放射とみられる不気味な発光現象が複数のリクビダートル達に目撃されていたが、ソ連政府に対するソ連海軍の公式報告ではこれらの事象の一切が隠蔽され、箝口令が敷かれた事などが証言されている。この事故で投入されたリクビダートルはムルマンスク軍港の港湾労働者を中心とした約1000名であったが、いずれも「放射能が極めて恐ろしいものである」事を日頃からある程度以上理解していた者たちばかりであった為、人的な二次被害は最小限に食い止められた。
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