1889年から1974年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 08:57 UTC 版)
「イングランドのカウンティ」の記事における「1889年から1974年」の解説
詳細は「イングランドの行政カウンティ」、「カウンティ・バラ」、および「en:County borough」を参照 1889年、イングランドに選挙により選出されたカウンティカウンシル(county council)が設置され、それまで四季裁判所が有していた統治機能の多くがカウンティカウンシルに委譲され、その後他の権限も移行された。ロンドン・カウンティ(County of London)がケント、ミドルセックス、サリーの一部から作られた。カウンティには行政カウンティ(administrative counties、カウンティカウンシルによって管理される地域)と、独立なカウンティ・バラ(county borough)の2種類があった。サフォーク、サセックス、ノーサンプトンシャー、ハンプシャー、ケンブリッジシャー、ヨークシャー、リンカンシャーにはそれぞれ複数の行政カウンティがあった。 地方自治法 1888年(Local Government Act 1888)のもと、地方長官任命といった地方自治以外の目的で用いられた区割も変化した。また、ロンドン・カウンティを含む全てのバラ(管区: borough)と都市ディストリクト(urban district)は、どれか一つのカウンティに属すことが求められた。このカウンティ群は、シティ・オブ・ロンドンとブリストルという二つのカウンティ・コーポレート(county corporate)を含むという点で前述した歴史的カウンティとはすでに異なっている。これらのカウンティは後に典礼カウンティ(ceremonial counties)と呼ばれるようになり、Ordnance Survey発行の地図で当時は「カウンティ」、後には「地理的カウンティ」と表記された。 1931年、暫定令確認(グロスターシャー、ウォリックシャー、ウスターシャー)法(Provisional Order Confirmation (Gloucestershire, Warwickshire and Worcestershire) Act)によりグロスターシャー、ウォリックシャー、ウスターシャー間で26のパリッシュ(行政教区)が移動され、飛び地の解消を主な目的とする境界の変更が行われた。 1965年には小変更が行われ、ミドルセックスの残りの大部分を廃止する過程の一環として元のロンドン・カウンティをグレーター・ロンドンの行政区域とし、ハンティンドンシャー(Huntingdonshire)とピーターバラ裁判区(Soke of Peterborough)は合併してハンティンドン・アンド・ピーターバラ(Huntingdon and Peterborough)に、元のケンブリッジシャー行政区とアイル・オヴ・イーリー(Isle of Ely、歴史的にはケンブリジッシャー北部のイーリー周辺)は合併してケンブリッジシャー・アンド・アイル・オヴ・イーリー(Cambridgeshire and Isle of Ely)になった。
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