16号文書の性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 14:01 UTC 版)
この死亡帳は、正倉院文書の死亡帳2例とは書式が異なり、「人名 + 年齢/年齢区分 + 死亡年月日」という二段書きの歴名帳および人名の下の二行割書のスタイルを採用している。これは、古代遺跡の木簡等の遺物出土例から推して、京進文書ではなく、地方の役所にとどめ置く公文書に特徴的な「実用的」な記載様式とみられる。 記載対象は、「去年7月」から「今年6月」までの一年間について、秋田城の支配領域(秋田郡周辺)の民で、当時の出羽国府(9世紀初頭に移転)に清書したものを提出したと考えられる。当時の秋田郡周辺の人々は、越後、加賀など祖先を北陸地方に持つ人が特に多く、東国に起源をもつウジも少なくなかったとみられる。 「戸主高志公」(名を欠く)の戸では1年間に6名もの人が亡くなっているが、9世紀前半は日本古代史上でもまれにみる天変地異の続いた時代である。東北地方でも、 天長7年(830年)の秋田地方の大地震(『類聚国史』) 承和4年(837年)の陸奥国の火山噴火 承和8年(841年)の出羽の飢饉 承和10年(843年)の陸奥の飢饉 承和13年(846年の)出羽の飢饉 嘉祥3年(850年)の出羽の地震(以上『続日本後紀』) など災害や飢饉が相次いでいる。死亡年月日と老若男女を対比させると、「去年」の秋から冬にかけて女性と老人の死亡が多く、「今年」は成人の男性が6月に死亡している。これによれば、凶作が続いて収穫期も食糧不足となり、体力のない老人や女性から亡くなって、税負担者であった男性はわずかな食糧を食いつないで年を越したが今年6月にはついに死亡した、と推測することも可能である。
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