鱒の養殖実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:08 UTC 版)
帰国後内務卿大久保利通に建議して勧業寮に水産掛が設置されると、早速アメリカで学んだ鱒の養殖に着手した。1877年(明治10年)1月11日勧業寮は廃止され、15日勧農局に配属された。 茨城県青柳村網代元菊池親の協力を得て1877年(明治10年)9月栃木県板室村で捕えた鱒を養魚池に移し、10月板室村、11月常磐村風呂で人工授精を施し、12月卵を神奈川県柚木村、埼玉県押切村、白子村、東京府内藤新宿試験所、神奈川県田奈村、愛知県宮田村に設けた養魚場に運んだ。孵化した後、相模川、木曽川、入鹿池へ移植し、1878年(明治11年)4月荒川、多摩川に放流した。 2年目は石狩川、三面川、最上川で鮭、琵琶湖でアメノウオの養殖試験が行われ、犀川では金沢在住の弟右門により孵化場が置かれ、順次全国に広げられたが、鮭の回帰には南限が存在するため、南日本では成果が得られず、その後人工孵化事業の中心地は北海道に移った。 また缶詰については、新宿農事試験場で試作が行われた後、北海道開拓使により製造所が創設され、輸入器械による事業が開始された。
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