駄ノ塚古墳の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:09 UTC 版)
駄ノ塚古墳は3世紀から全国各地で造られ続けた前方後円墳の造営終了後、終末期古墳として造営された大型の方墳の一つとして知られている。駄ノ塚古墳がある上総国以外にも上野国、下野国、常陸国、武蔵国、下総国といった関東地方各地に、前方後円墳築造終了後に造営された大型の方墳、円墳が存在するが、詳細な発掘調査の結果、7世紀の早い時期に駄ノ塚古墳の造営が行われた事実が明らかになったことにより、関東地方でもヤマト王権の中枢地である畿内からあまり遅れることなく前方後円墳から終末期の方墳や円墳などの築造へ移行していったことが明らかになった。 駄ノ塚古墳は一辺約60メートルという大きさであり、これは同じ時期ヤマト王権の大王を葬ったと考えられる春日向山古墳や山田高塚古墳とほぼ同じ大きさである。このように7世紀前半から中頃にかけての関東地方では、各地で大王陵と匹敵ないしは凌駕する規模の方墳や円墳が造営された。これはヤマト王権が6世紀末から7世紀にかけて新たな体制を構築していく中で、広大な面積を持つ関東地方と東北地方を重視するようになり、そういった状況下で関東地方の重要性が増すことにより、関東各地の首長の力が強まったため、大規模な方墳や円墳の築造が行われるようになったと考えられる。その一方で駄ノ塚古墳が属する武射郡内で6世紀後半から7世紀初頭にかけて大規模な前方後円墳を築造していた4つの勢力が、終末期の方墳や円墳を築造する時代になると2つの勢力になったことも明らかになっており、これはヤマト王権によって武射郡内の首長勢力の統合、再編成が行われた結果と考えられ、古代豪族の連合体制から国造制の成立へ向けて、ヤマト王権の関与が強まっていく状況もまた見えてくる。 また、板附古墳群の駄ノ塚古墳や駄ノ塚西古墳は方墳であるが、同じ武射郡内の終末期の古墳である山室姫塚古墳は円墳である。これはそれぞれの古墳を築造した首長が結びついた畿内のヤマト王権内の勢力に違いがあった可能性が指摘されており、具体的には畿内で春日向山古墳、山田高塚古墳、石舞台古墳といった大型方墳を築造したのは蘇我氏や蘇我氏と関係が深い豪族や大王家の成員で、牧野古墳などの大型円墳を築造した勢力は非蘇我氏や蘇我氏と関係が薄い大王家の成員であり、関東地方でも方墳を築造した勢力は蘇我氏や蘇我系の王族との関係が深く、円墳を築造した勢力は非蘇我氏や蘇我氏と関係が薄い王族との関係が深いのではとの説も提唱されている。 駄ノ塚古墳などの終末期の大型古墳の築造は7世紀後半になると終息を迎え、地方首長の統合、再編成はさらに進み、律令制の郡司の時代となり、首長の権威の象徴は古墳から寺院へと変わる。駄ノ塚古墳を始めとする旧武射郡内の古墳からは、関東地方の首長たちが6世紀後半になって力を強め、全国有数の規模の方墳や円墳を築造するようになり、その一方で首長の統合、再編成が行われて国造、そして律令制の郡司へとなっていく過程を確認できる貴重な遺跡である。
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