非公式協力者としての活動
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「ライナー・シェドリンスキ」の記事における「非公式協力者としての活動」の解説
1992年の初めに、ARDの政治雑誌『コントラステ(ドイツ語版)』は、シェドリンスキは遅くとも1979年には非公式協力者としてシュタージのために活動していたという調査結果を公表した。それ以前には彼は、採用の試みにはすべて反抗し、たんに「調書」にサインしただけだと主張していた。デア・シュピーゲルがその調査結果を査定したところ、シェドリンスキは、「人びとについて密告し、それは人間性という言葉が辞書には乗っていない言い方であった」。シェドリンスキは、アンダーソンやイブラヒム・ベーメ(ドイツ語版)の場合と同様に、シュタージが1980年代に設置した「新しいタイプの非公式協力者」であった。「共和国に敵対的な」グループに対して、叩きのめすのではなく、支配し、「特徴を変えて」、内側から「無力化」することが目的であった。彼の役割は、芸術家の仲間たちを監視するだけではなく、教会の組織やメンバーについての情報も記録していた。彼の場合、お金は重大な関心事であった。1985年から1986年の冬以降、彼は毎月、謝礼をもらっていた。 シェドリンスキは、非公式協力者の活動について、数年間精神病の治療を受けていて、1981年の国家人民軍の兵役期間中に、自殺を試み始めるようになっていた。「何度も言わなければならないことだが、私は弾圧に抵抗しなかった。この説明モデルに対して、言語学者で文学研究者のアリソン・ルイスによれば、シェドリンスキは、この時代にすでに兵役期間中に暴露されていて、マクデブルクの文学サークルではしばしばシュタージの非公式協力者として非難されていたこと、さらに彼は数カ月後に自主的に再びシュタージとの接触を図った。1992年6月、シェドリンスキは雑誌『新ドイツ文学(ドイツ語版)』に長いエッセイを書き、さらに弁明している。そのなかで彼はシュタージを「権力の受付嬢」と呼び、「裏取引することは、名誉に関わることでもないし、多くの人にとっては面白くもなかった。彼に監視されていたルッツ・ラーテノー(ドイツ語版)は、シェドリンスキのような人びとが「間違った情報によって、最終的に、この病的な体制の崩壊を遅らせていただろう」としている。
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