霊鷲院日審上人とは? わかりやすく解説

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霊鷲院日審上人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:22 UTC 版)

妙情寺」の記事における「霊鷲院日審上人」の解説

当山5世霊鷲院日審上人(1599年 - 1666年)は「説法すること一万余座授与した曼荼羅十万余幅」と言われ近世初期日蓮宗代表的な説法者であり 京都中心に六十余州布教され、「説法人中最為第一の人」「富楼那日審」と讃えられた。 そのなかの大村布教では、キリスト教により根絶され仏教再興残っているキリシタン改宗により大村藩存続させるため藩内の教化に励む。 大村丹後守大村藩第3藩主大村純信夫妻母堂寿徳院はじめ名家老・大右衛門などの重臣たちも日審上人帰依したまた、出生まつわる幽霊子育飴伝説が有名である。 夜な夜な一文銭持って飴を買いに来る女性がいた。7夜目一文銭は「しきみの」と化し不審思った飴屋女性後を追う墓地の前で忽然と姿を消した。ある墓から赤ん坊泣き声聞こえたので、お寺住職一緒に墓を掘り返してみたことろ、壷のなかには母親亡骸抱かれ飴をくわえた赤子がいた。母親赤子を身ごもったま亡くなり幽霊となって六文銭三途の川を渡るために入れられる副葬品)で飴を買いにきていたのである助けられ赤子がのちの霊鷲院日審上人である。そこから「壺日審さま」と呼ばれ全国布教とともにその伝説が広まった日審上人真筆曼荼羅御本尊は「安産守護」のご利益があり、難産の時このご本尊安産祈願すれば霊験あらたかであると言い伝えられる本堂扁額「子育殿」は日審上人伝説から由来しており、小笠原長生海軍中将揮毫である。

※この「霊鷲院日審上人」の解説は、「妙情寺」の解説の一部です。
「霊鷲院日審上人」を含む「妙情寺」の記事については、「妙情寺」の概要を参照ください。

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