霊鷲院日審上人
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当山5世霊鷲院日審上人(1599年 - 1666年)は「説法すること一万余座、授与した曼荼羅十万余幅」と言われ、近世初期日蓮宗の代表的な説法者であり 京都を中心に六十余州を布教され、「説法人中最為第一の人」「富楼那日審」と讃えられた。 そのなかの大村布教では、キリスト教により根絶された仏教の再興と残っているキリシタンの改宗により大村藩を存続させるため藩内の教化に励む。 大村丹後守(大村藩第3代藩主・大村純信)夫妻と母堂・寿徳院はじめ名家老・大村彦右衛門などの重臣たちも日審上人に帰依した。 また、出生にまつわる『幽霊子育飴』伝説が有名である。 夜な夜な一文銭を持って飴を買いに来る女性がいた。7夜目の一文銭は「しきみの葉」と化し、不審に思った飴屋が女性の後を追うと 墓地の前で忽然と姿を消した。ある墓から赤ん坊の泣き声が聞こえたので、お寺の住職と一緒に墓を掘り返してみたことろ、壷のなかには母親の亡骸に 抱かれ飴をくわえた赤子がいた。母親は赤子を身ごもったまま亡くなり、幽霊となって六文銭(三途の川を渡るために入れられる副葬品)で飴を買いにきていたのである。 助けられた赤子がのちの霊鷲院日審上人である。そこから「壺日審さま」と呼ばれ全国の布教とともに、その伝説が広まった。 日審上人真筆の曼荼羅御本尊は「安産守護」のご利益があり、難産の時このご本尊に安産を祈願すれば霊験あらたかであると言い伝えられる。 本堂の扁額「子育殿」は日審上人の伝説から由来しており、小笠原長生海軍中将の揮毫である。
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