電池の新発明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 01:02 UTC 版)
「島津源蔵 (2代目)」の記事における「電池の新発明」の解説
第一次世界大戦が勃発するとドイツからの蓄電池輸入が途絶えたため、三菱・大倉財閥や京都財界によって島津製作所の蓄電池工場は独立する事になり、1917年に日本電池株式会社(現・ジーエス・ユアサコーポレーション)が設立された。また、源蔵は前年の1916年に緑綬褒章を受章している。 源蔵はこの会社でも開発の指揮を取り、1920年に円筒中に鉛の塊を入れて送風しながら回転して亜酸化鉛(Pb2O)を生成する「易反応性鉛粉製造法」を発明した。これによって1923年の第3回発明品博覧会・電気工業の部で大賞を受賞した。さらにこの亜酸化鉛粉から防錆剤を作り、それを扱う大日本塗料株式会社が1929年に独立した。 「易反応性鉛粉製造法」では国内およびアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどで特許を取得し、これをはじめとする発明の業績により、源蔵は1930年の宮中晩餐会に御木本幸吉らとともに日本の十大発明家の一人として招待された。1937年(昭和12年)には電池を動力とする輸送機を製造する日本輸送機株式会社(現・三菱ロジスネクスト株式会社)が設立されている。 1939年、島津製作所の社長を退き会長となった。さらに1945年の太平洋戦争終結を機に会長職も引退し、京都市左京区北白川の山荘で発明に専念した。生涯の発明考案は178件に上る。1951年10月3日に82歳で亡くなった。
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