雄弁学完成の立役者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 14:50 UTC 版)
加藤は教化の方法としての弁論・演説について研究・著述活動を精力的に行った。佐藤拓司は、加藤は単著として雄弁学関連書を最も多く刊行した人物であるとしている。1908年に刊行した『雄弁法』は、それまでの雄弁学の雄弁美辞法の系譜を継ぎつつも、初めて雄弁学を体系的に書き出したものであった。また、1912年から雑誌『雄弁』に連載した「雄弁の新研究」において思想内容の充実と聴衆心理把握の研究に目を向けた雄弁学の改革を唱え、雄弁学の完成への下地を準備した。 しかし1930年代、時局の悪化に伴い、弁論団体の解散や弁論大会の中止が余儀なくされるなど雄弁学を取り巻く状況は息苦しくなっていた。雄弁学界隈では雄弁学の学校教科化・競技化を模索するも、学生弁論の極左化(ヤジをかわすためにを極端に過激な弁論内容にするようになった)の状況から頓挫していた。そのような中、加藤は新体制に時局に阿り翼賛するための「雄弁道」を唱えた。1941年1月には「新体制と雄弁界の方向」において、独白・討論の雄弁学から複白・談話の雄弁道に移行して時局に対応するときだと述べた。同年2月には論考「時局下の青年雄弁」において自由な青年雄弁は自粛すべきであるとした。
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