閏8月を巡る「改暦」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:46 UTC 版)
これは章首の後に来る最初の「閏8月」を発生させてはならないというものであるが、その場合に替わりに7月に閏月が設置されることとなり、これを退閏(たいじゅん)と称した。その由来については暦道による秘伝とされ、中国由来説もあるものの理由は不詳である。 大治4年(1129年)に初めてこれを理由に改暦が行われた際に宿曜師・隆算や算博士・三善為康らがこれを激しく難じたのに対して、当時の暦博士は「所伝之秘説口伝也」としか応えなかったとされている(『中右記』同年6月2日(6月20日)条、『長秋記』にも同様の記述あり)。内田正男の計算によれば、この年の暦はこの年は閏月が発生して1年が13か月になる年であるが、計算上では本来は9番目の月に入る段階で小余が6547となり進朔限6300を突破するために進朔が発生するために9番目の月の到来が本来の日よりも1日分後ろにずらされるため、8番目の月の晦日(最後日)と中気である秋分が重なるためにそのまま8月となり、その翌日より始まる9番目の月は中気を含まないため閏月となり、9番目であっても閏8月として開始される暦が作られなければならないのに、進朔のし忘れにより実際の頒暦では9番目の月の到来が1日前倒しされて8番目の月が中気を含まない月とされて閏7月となり、中気である秋分が朔日(1日目)となった9番目の月が替わりに8月となってしまっている。そのため、内田はこの進朔の不作為によって生じた誤った閏月の配置の事実をごまかすために暦博士はこうした主張をしたと推定している。なお、この時には本来8番目の月(8月)は大の月、9番目の月(閏8月)は小の月の予定であったが、この改暦によって8番目の月(閏7月)は小の月、9番目の月(8月)は大の月とする辻褄合わせが行われている。 以後、これが由緒ある先例であるとして信じられるようになり、前述の建仁2年を含めて応永2年までの7回、閏8月を閏7月にする改暦がなされている。もっとも、この期間にも閏8月のまま修正が行われなかった年も存在しており、応永年間より300年が経過した江戸時代前期にはこうした理由による修正の事実そのものが忘れ去られていた(貞享暦では進朔の規定そのものが廃止されている)。そのため、日本で最初の長暦を作成した渋川の『日本長暦』もこの事実に気付かずに修正が行われた7回全てを閏8月としており、中根元圭の『皇和通暦』ではこの事実が確認されたために、閏8月を避けたものに修正された後の暦を掲げている。 ただし、鹿島神宮とつながりが深いとされる民間暦の鹿島暦では、応永年間以後も閏8月を避ける暦を作成している(永禄9年(1564年)・天正13年(1585年)・慶長9年(1604年))。
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