開拓期以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/01 15:54 UTC 版)
「エイムズベリー (マサチューセッツ州)」の記事における「開拓期以後」の解説
エイムズベリーは質素な農業町として始まり、積極的な海事と工業の経済を発展させた。造船と、海運や漁業も重要だった。メリマック川をニューベリーポートに渡す船は活発な事業だったが、ディア島への橋が建設されるまでだった。ニューハンプシャーのニュートン町が1741年にエイムズベリーから分離し、エイムズベリーの北側境界すなわち2つの植民地の境界が調整された。 19世紀、滝の所に繊維工場が建設され、さらに釘を作る機械化工場は国内初のものと考えられている。メリマック帽子会社は帽子の最大生産量を誇った。1853年から馬車の生産で有名になり、それが自動車車体の製造に変わって行った。工業は世界恐慌と共に終わった。エイムズベリーではホイトのバッファロー印ピーナツバター・キッスも生産していた。 19世紀に発行された新聞としては、「エイムズベリー・デイリーニューズ」、「メリマック・ジャーナル」、「モーニング・クーリエ」、「イブニング・クーリエ」、「ニューイングランド・クロニクル」、「トランスクリプト」、「ビレジャー」があった。20世紀には「エイムズベリー・アドボケイト」、「エイムズベリー・ニューズ」、「エイムズベリー・タイムズ」、「リーダー」が発行された。 1876年、メリマック町がエイムズベリーから分離した。1996年、エイムズベリーは町から市に変わり、市長と市政委員会の政府形態を採用したが、名称には「町」を残している。これは住民が「エイムズベリーはあまりに小さくて市とは言いにくい」と判断したからだった。2011年11月の住民投票で、市は公式に「エイムズベリー市」に変更し、昔のエイムズベリー町という呼称を外すという憲章修正を承認した。それでも市章には「エイムズベリー町」という表示が残っているので、市章を修正する法案を検討中である。 現在のエイムズベリーには、連邦様式やヴィクトリア様式の建築物が多く残っている。近年、歴史的中心街を修復し、多くの新しいレストランが開店した。レナード・クラスケが制作した彫刻の「ドウボーイ」がエイムズベリー中学校前の芝生に立っている。1929年11月11日に除幕された。クラスケはグロスター市にある「漁師の記念碑」を製作したことで著名である。エイムズベリー生まれで、後にニューハンプシャー州知事になったジョサイア・バートレットの記念碑もここにある。 トマス・メイシー邸、1905年頃 工場群、1914年 バトラーの彫像、1910年 ウィッティアの邸宅、1909年
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