開拓期以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 23:45 UTC 版)
古い文献には聚富に関する記述がほとんどなく、松浦武四郎が1856年(安政3年)に作成した『東西蝦夷地山川取調地図』の中にシュオプ川(聚富川)やシララトカリ川(知津狩川)の位置が記されたものが最古の言及と思われる。 厚田区の日本海沿岸は江戸時代からニシン・サケ・マスの漁場として栄えていたが、聚富の沿岸は遠浅の砂浜で船着き場を確保し難いためか、漁師が定住した記録は皆無である。サケやマスの漁季には漁師の親方が番屋を建てて漁業を営んでいた記録はあるが、あくまで一時的な居住でしかない。アイヌに関しては数戸で小集落を作って暮らしていた形跡があるものの、和人の進出に伴って次第に生活圏を奪われ退去したらしく、後の開拓期になって土中からアイヌの使っていた道具が発掘されたという話がある。 北隣の望来では1871年(明治4年)から開拓が始まっているのに対し、聚富はそれから20年以上経っても無人の地として捨て置かれており、その理由を明言した資料はないものの推察することは可能である。1871年(明治4年)に伊達邦直らの一行が開拓使から聚富の地を割り当てられたが、定住に先んじて地質や水質を調べたところ農耕不適地であることが判明し、開拓使の許可を得て当別へと移っていったことがあった。このため開拓使は聚富を開拓希望者に割り当てることを躊躇しており、開拓移民制度が廃止になる1895年(明治28年)まで後回しにしていたと考えられる。
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