長野県知事選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 00:11 UTC 版)
茅野の存在は、2000年の長野県知事選で全国にその名を知られるようになる。同年8月上旬、仁科恵敏・長野商工会議所会頭、平野稔・平安堂会長らとともに長野市内で初めて田中康夫と対面し、「長野県を変えてくれる人」と立候補を強く要請し、田中擁立の立役者となった。県知事選では、節目節目で集会に顔を見せるなど、田中陣営の「アンカー」ともいえる存在で、官民の様々な組織を固める前任知事の後継者である対立陣営の動きに対し、「自由にものが言えない状況は民主主義ではない」と発言、さらに銀行内外からの批判も「あくまで一個人としての支援」と意に介さず、田中の長野県知事初当選時には「民主主義の目覚まし時計」と絶賛した。 しかし、田中知事就任後は「しばらくは見守る」としていたが、田中の「脱ダム宣言」については「電子メールで県民の意見を聴いているというが、聴く範囲が狭すぎ、民主主義とは言えない」などと批判するコメントを週刊誌に出すなど、徐々に軋轢が生じるようになる。2002年の出直し知事選では支援を継続したものの、後の、居住区をめぐる田中自身の住民票問題や山口村の岐阜県への越県合併を認めないとする対応などを巡り対立、2005年3月には、田中の後援会を退会し袂を分かつことになる。その後、2006年の県知事選の直前には地元紙・信濃毎日新聞に田中を批判する意見広告を出し、さらには同選挙では対立候補である村井仁を支援した。県の政財界に大きな影響力を持つ茅野の離反は、同年の知事選で田中が落選する遠因となった。
※この「長野県知事選」の解説は、「茅野実」の解説の一部です。
「長野県知事選」を含む「茅野実」の記事については、「茅野実」の概要を参照ください。
- 長野県知事選のページへのリンク