幻の初代公選長野県知事選出馬
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「小林次郎」の記事における「幻の初代公選長野県知事選出馬」の解説
参議院開設準備委員長在任中の1947年4月5日に実施された初回の公選長野県知事選挙では、保守陣営で小林次郎を擁立する動きがあった。保守系の有力者が軒並み公職追放で出馬不能のため、自由・進歩党両党では自由党は現職の物部薫郎(岡山県出身)を推したが、進歩党は「初代民選知事は長野県人」という意向から小林を第一候補とし第二候補を物部とした。当時小林を支持したものは「北信の某財閥(実業家で枢密顧問官の小坂順造)と、是れに関連する一群の人々」で、その背後には植原悦二郎内相があるといわれ、郡山義夫元知事や木内四郎などが頻繁に来県していたという。1947年2月18日両党県会議員による通称「やぶ会談」で両論はぶつかり、結局物部案に一致したが、小林を推す小坂は、物部を退却させる選挙戦術や中央での政治工作を枢密顧問官伊沢多喜男に求めた。しかし伊沢は小林の知事選には静観の構えで、それどころか会合の主催者の一人として自身の名前が使われたことを知って激怒し、小坂は行き違いを詫びた。これも一因となってか結局小林の出馬は見送られた。 この第1回長野県知事公選は結局保守陣営の物部と民主陣営の社会党林虎雄の一騎打ちとなり林が当選した。林によると当初小林は社会党の応援を得ての出馬を考え、直接林に支援を要請したが、林が社会党への入党を条件として提示したことに小林が難色を示し、調整は不調に終わったという。なお1951年第2回長野県知事選挙でも再選を目指す林に対抗する保守陣営の候補として小林の名が出たが擁立は実現しなかった。
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