長政との確執・出奔
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黒田家出奔までの主君・黒田長政との不仲説は、後世の憶測によるものであるが、以下のような逸話が理由とされている。 城井氏との緒戦での敗戦(城井谷崩れ)後、一揆鎮圧軍を率いていた長政は頭を丸めて父・如水に詫び、それに追従して物頭以上の他の武将達も頭を丸める中、基次は従わなかった。周囲から危惧されたが、特に悪びれる様子もなく平然とし、「戦に勝敗はつきもの。負け戦の度に髷を落としていたら、生涯、毛が揃う事がないわい」と言い、如水は不問に付した。先に頭を丸めた長政は大いに面目を失った。 文禄の役で長政が朝鮮軍の敵将と組み合って川中に落ちた際、基次は傍に居たが、この一騎討ちにまったく加勢しなかった。不思議に思った小西行長の家来に問われると、基次は「敵に討たれるようなら我が殿ではない」と言って、悠然と見物を続けたという。長政は、どうにか敵将を討ち取ったものの、この一件で基次を非常に恨むようになったとされる。 慶長の役で長政の営中に虎が出現し馬を噛み殺し暴れまわった。家臣の菅正利が虎に斬りつけ、虎が逆上して正利に襲い掛かろうとしたところを基次が割って入り斬り、正利が虎の眉間に一撃を加えて即死させた。このとき、夜襲かと疑って井楼に昇り、一部始終を見ていた長政は、「一手の大将たる身に大事の役を持ちながら、畜生と勇を争うは不心得である」と二人を叱責した。 報奨に不満があった。 武家社会において名が広く知られていたために交友関係が広く、長政と仲の悪かった細川忠興との内通を疑われ、叱責を受けた事による。 嫡男であり、石垣原の戦いでも功名のあった後藤太郎助(一意?)が、女性問題などで黒田家から領外退去させられていた。 また、四男の又一郎は小鼓の演奏に秀でていたが、長政から祇園神事の能の伴奏を命じられた事により、「武士の務めにあらず」と関係が冷え込んだ。
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