長政との確執・出奔とは? わかりやすく解説

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長政との確執・出奔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 03:45 UTC 版)

後藤基次」の記事における「長政との確執・出奔」の解説

黒田家出奔までの主君黒田長政との不仲説は、後世憶測よるものであるが、以下のような逸話理由とされている。 城井氏との緒戦での敗戦城井崩れ)後、一揆鎮圧軍を率いていた長政頭を丸めて父・如詫び、それに追従して物頭上の他の武将達も頭を丸める中、基次は従わなかった。周囲から危惧されたが、特に悪びれる様子もなく平然とし、「戦に勝敗つきもの負け戦の度に髷を落としていたら、生涯、毛が揃う事がないわい」と言い、如不問付した先に頭を丸め長政大い面目を失った文禄の役長政朝鮮軍敵将組み合って川中落ちた際、基次は傍に居たが、この一騎討ちにまったく加勢しなかった。不思議に思った小西行長家来問われると、基次は「敵に討たれるようなら我が殿ではない」と言って悠然と見物続けたという。長政は、どうにか敵将討ち取ったものの、この一件で基次を非常に恨むようになったとされる慶長の役長政営中に虎が出現し馬を噛み殺し暴れまわった家臣菅正利が虎に斬りつけ、虎が逆上して正利襲い掛かろうとしたところを基次が割って入り斬り、正利が虎の眉間一撃加えて即死させた。このとき、夜襲かと疑って井楼昇り一部始終見ていた長政は、「一手大将たる身に大事の役を持ちながら、畜生と勇を争うは不心得である」と二人叱責した。 報奨に不満があった。 武家社会において名が広く知られていたために交友関係広く長政と仲の悪かった細川忠興との内通疑われ叱責受けた事による。 嫡男であり、石垣原の戦いでも功名のあった後藤太郎助(一意?)が、女性問題などで黒田家から領外退去させられていた。 また、四男の又一郎小鼓演奏秀でていたが、長政から祇園神事の能の伴奏命じられた事により、「武士の務めにあらず」と関係が冷え込んだ

※この「長政との確執・出奔」の解説は、「後藤基次」の解説の一部です。
「長政との確執・出奔」を含む「後藤基次」の記事については、「後藤基次」の概要を参照ください。

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