銀行界・実業界への転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 15:39 UTC 版)
これ以後、陳其采は軍人からは事実上引退し、主に実業界・政界での活動に軸足を移す。帰国後は中国銀行総文書に任ぜられ、さらに張謇の招聘に応じて大豊公司総経理となっている。後に中国銀行に戻り、杭州分行副行長(行務代理)に任ぜられた。1924年(民国13年)、湖州旅滬同郷会(湖州出身者による上海での互助会)が結成されると、陳が理事長に選出されている。 1926年(民国15年)、陳其采は江浙財政委員会主任委員、浙江政治分会委員となる。翌年5月、浙江省政務委員会委員に任ぜられ、財政庁庁長を兼任した(10月に省政務委員会が省政府に改組されても留任)。6月、国民政府導准委員会副委員長となり、さらに財務処処長も兼ねている。1928年(民国17年)11月、江海関監督となり、その翌年4月には上海市臨時政治委員会委員となった。 1930年(民国19年)3月、陳其采は江蘇省財政庁庁長に任ぜられる。同年12月には国民政府主計処籌備委員会主任となり、翌年3月の主計処成立とともに主計長に任ぜられた。その後も、中央銀行常務理事、中国銀行董事、交通銀行常務董事(後に董事長代理)、中英庚款保管委員会董事、中国農民銀行常務董事など銀行界で要職を歴任している。1941年(民国30年)9月に行政院水利委員会委員、1944年(民国33年)3月に中央銀行常任理事となった。 戦後の1946年(民国35年)10月に陳其采は国民政府委員に任ぜられ、後に総統府国策顧問となる。国共内戦の末期に台湾に逃れた。 1954年(民国43年)8月7日、台湾にて病没。享年75(満73歳)。
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