鉄軍指揮官とは? わかりやすく解説

鉄軍指揮官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 03:24 UTC 版)

陳銘枢」の記事における「鉄軍指揮官」の解説

1926年民国15年5月陳銘枢らの第4軍10師は北伐に参加する第4軍各地北方政府軍を破る。8月には、賀勝湖北省)で呉佩孚軍と交戦し激戦の末にこれを撃破して賀勝占拠した。この時の勇猛果敢戦いぶりから、・陳らが率い第4軍は「軍」と呼ばれる栄誉得ている。 同年10月陳銘枢武漢衛戍司令任命された。また、その部隊第11軍拡充され軍長昇進したその後国民政府内の権力闘争では、陳は蒋介石支持した1928年民国17年2月広州政治分会委員、さらに同年12月には広東省政府主席就任し、第8路軍総指揮陳済棠軍政双頭体制広東統治し始めたその後も、1930年民国19年)の中原大戦までは、陳銘枢引き続き蒋を支持し陳済棠協力して反蒋派を撃破したまた、この時に陳銘枢部下である蒋光鼐・蔡廷鍇に、第19路軍を組織させている。 しかし、1931年民国20年)から始まった中国共産党討伐において、蒋介石により動員された第19路軍は苦戦に陥って大きく兵力損なった。これにより、蒋の軍事指揮能力疑問抱いた陳銘枢は、蔡元培らと結んで、反蒋挙兵行おう目論む。しかし同年9月満州事変勃発に伴い各勢力大同団結至った陳銘枢は、京滬衛戍司令長官として、第19路軍を統率し上海防衛担当した12月には蒋が下野し1932年民国21年元旦孫科が行政院院長就任する。このとき、陳銘枢が行政院副院長兼任した。しかし蒋の妨害甚だしく、孫・陳は1月持たずして辞任した(京滬衛戍司令長官には留任)。

※この「鉄軍指揮官」の解説は、「陳銘枢」の解説の一部です。
「鉄軍指揮官」を含む「陳銘枢」の記事については、「陳銘枢」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鉄軍指揮官」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鉄軍指揮官」の関連用語

1
10% |||||

鉄軍指揮官のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鉄軍指揮官のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの陳銘枢 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS