鉄軍指揮官
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1926年(民国15年)5月、陳銘枢らの第4軍第10師は北伐に参加する。第4軍は各地で北方政府軍を破る。8月には、賀勝橋(湖北省)で呉佩孚軍と交戦し、激戦の末にこれを撃破して賀勝橋を占拠した。この時の勇猛果敢な戦いぶりから、李・陳らが率いる第4軍は「鉄軍」と呼ばれる栄誉を得ている。 同年10月、陳銘枢は武漢衛戍司令に任命された。また、その部隊は第11軍に拡充されて軍長に昇進した。その後の国民政府内の権力闘争では、陳は蒋介石を支持した。1928年(民国17年)2月に広州政治分会委員、さらに同年12月には広東省政府主席に就任し、第8路軍総指揮陳済棠と軍政双頭体制で広東を統治し始めた。その後も、1930年(民国19年)の中原大戦までは、陳銘枢は引き続き蒋を支持し、陳済棠と協力して反蒋派を撃破した。また、この時に、陳銘枢の部下である蒋光鼐・蔡廷鍇に、第19路軍を組織させている。 しかし、1931年(民国20年)から始まった中国共産党討伐において、蒋介石により動員された第19路軍は苦戦に陥って大きく兵力を損なった。これにより、蒋の軍事指揮能力に疑問を抱いた陳銘枢は、蔡元培らと結んで、反蒋挙兵を行おうと目論む。しかし同年9月の満州事変勃発に伴い、各勢力は大同団結に至った。 陳銘枢は、京滬衛戍司令長官として、第19路軍を統率し、上海の防衛を担当した。12月には蒋が下野し、1932年(民国21年)元旦に孫科が行政院院長に就任する。このとき、陳銘枢が行政院副院長を兼任した。しかし蒋の妨害は甚だしく、孫・陳は1月も持たずして辞任した(京滬衛戍司令長官には留任)。
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