野戦・山王堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 03:40 UTC 版)
小田氏治は謙信率いる上杉勢が押し寄せたと聞いて、菅谷政貞を先鋒として3000余騎を率いて小田城を出発。大島、酒寄を駆け抜け、茨城郡稲野村西念寺前諸塚あたりから筑輪川(筑波川)を渡った。山王堂近くの三十町四方の芦原に着陣したのは28日の明け方で、川を背にして推尾村(押飛村)の南に旗を立て、先手を山王堂に向け、深田を前にして陣をとった。 28日(7日)辰の刻(8時)、上杉軍は丘上から静々と降りてきたが、突如疾風の如く、鬨の声をあげて深田を真一文字に突き進んできた。小田方の菅谷政貞、信太治房、平塚弥四郎、赤松凝淵斉らは敵を寄せつけじと、弓・鉄砲・槍・薙刀で応戦。多くの死者が出たが、上杉勢は怯まず、討たれた味方の人馬を足代にして泥田を踏み越え、叫びながら切り込んできた。さすがの小田勢も、この猛攻に耐え切れず十町ばかり退いて陣容を立て直そうとするも、上杉勢が追撃にかかったので、両軍入り乱れて鎬を削り、鍔を割り、黒煙を蹴立てて戦った。 この時の戦闘の激しさを、真壁氏幹の郎従・稲川石見守という18歳の若武者が目撃している。「武者ぼこりの一面に立つ中に、打ち合わせる太刀の光が電光のように煌めくだけであって、戦い終わってからも戦場に黒い霧が立ち込めたように、おぼろおぼろに見えた」と後に語っている。小田方の先鋒・菅谷政貞は大いに戦功を上げたが、嫡子・彦次郎政頼は弓弦絶え、矢種尽きて苦戦しているので、左右の者はひとまず退くことを勧めたが、命を捨てて忠節を尽くすのはこの時ぞと叫び、群がる敵中に切り込んで討ち死にした。 申の刻(16時)まで激戦は続き、小田勢は地の利を生かして奮戦したものの敗色は濃くなる一方であった。氏治は朝方渡った筑輪川に馬を乗り入れ引き返そうとしたが、あまりに馬が疲れているので馬首を川上に引き向けて水を飲ませているところへ、上杉勢が6,7騎追いかけて来て矢を放った。札よき鎧なので裏まで貫通せず、氏治は川岸を駆け上り敗れた兵をまとめて小田城に帰還し防御に手筈をして上杉勢の攻撃に備えた。
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