都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発
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「日本の脚気史」の記事における「都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発」の解説
「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった。都築は、動物脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年(明治43年)3月の調査会と4月の日本医学会で発表した。動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいることを公表したのである。また1911年(明治44年)、都築と志賀潔(1910年(明治43年)8月委員となる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効否試験を行った。その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値ではなかったものの、試験を重ねる価値は十分あった。しかし、都築が12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったため、米糠の効否試験は1年で終わった。 都築は、翌1911年(明治44年)4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮によって調査会でも発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのようにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり理解を示していたとの見解もある。一方で森は、脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを否定、細菌原因説に固執していたとの見解もある)。その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するとともに、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した卓越した業績であった。さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通用する内容であり、特に副食への着眼は、先人の誰も気づいていないものだった。 「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究に励み、ついにその製剤を治療薬として販売した(1911年(明治44年)4月アンチベリベリン粉末・丸などを販売。同年9月、注射液を販売)。有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)のアンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。
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