都築弥厚の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:56 UTC 版)
碧海台地に矢作川の水を引いて新田開発を行う計画は、江戸時代文化・文政期に碧海郡和泉村(現:安城市和泉町)の豪農である都築弥厚(1765年 - 1833年)の発案である。都築は数学者の石川喜平とともに、1822年に用水路の測量に着手し、農民の抵抗に遭いながらも、1826年に測量を完了させた。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。願書によると、碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村(現:豊田市平戸橋町)で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画であった。1833年には幕府は都築の計画を許可したが、都築は同年に病没した。
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