都立高校教師時代
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自由学園で教師の面白さを知り、1984年に東京都教員採用試験を受け合格した。1985年度(昭和60年度)より、東京都立稲城高等学校に理科教師(物理)として赴任した。 稲城高校は、米村によると「生徒は落ちこぼれ。授業中に漫画を読んだり、黒板に向かっている間に数人が教室を抜けたりして、とても授業にならなかった」という状況であった。また「高校進学の時期になると『あの学校は無くなってしまうらしい』という噂が中学生の間に流れるような状況であった」としている。このとき、生徒が理科に関心を持てるように、「百人おどし」(後述)の実験をしたり、野外観察に生徒たちを連れ出して、野草や木の実をビーカーで茹でて食べられるかどうかを、生徒たちが自主的に調べるように仕向けたりした授業を行った。このころ、Mr.マリックがテレビで脚光を浴びた時期であり、生徒が米村に「超能力はあるのか?」と質問してくることもあった。これをヒントに授業で超能力を取り上げ、超能力について生徒に考えさせる授業方法の模索も行った。 この時期、東京学芸大学大学院の先輩で、当時、国際基督教大学高等学校で物理教師をしていた滝川洋二も、学校教育での「理科離れ」の状況に危機感を持っていた。滝川は理科離れを食い止めるためには実験による授業が重要であると考え、1986年1月に「物理教育実践検討サークル」を立ち上げた。後にサークルは「ガリレオ工房」と改称することになる。このサークルに、滝川は大学院時代の後輩である米村を誘った。滝川によると、米村はガリレオ工房の定例会に毎回新しく開発した実験を持ち込み披露していた。一時期は毎月1時間程度の米村講座が続くような情況であったという。 1993年4月より東京都立小金井北高等学校に赴任した。米村の回顧によると「(小金井北高校は)進学校で、実験授業は大学受験の役に立たず生徒やその父母から評判が良くなかった」という。また教頭に呼び出され「君が教師になったのは間違いだ」と言われたこともあった。 このころから、米村はNHK教育テレビの番組製作を手伝うようになった。「やってみようなんでも実験」では自ら出演して実験を披露するようにもなった。また、展示内容のリニューアルを計画していた科学技術館より、サイエンスショーエリアのプロデュースが依頼された。
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