都市への昇格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 14:17 UTC 版)
中世のリューデンシャイトは、ケルン大司教とアルテナ伯(後のマルク伯)との駆け引きの場であった。この聖界領主(ケルン大司教)は同時にヴェストファーレン公(ドイツ語版、英語版)の爵位を有していた。アルテナ伯はその家臣であった。ケルン選帝侯はこれにより、後のメルキッシャー地方の世俗高権をも有していた。しかし地元の伯たちは、独立した領邦を獲得しようと努めていた。この際に戦略上および教会組織上重要なリューデンシャイトは大きな意味を持っていた。都市への昇格により、マルク伯は影響力の強化を図った。しかしそれにはケルン選帝侯の認可を得なければならなかった。マルク伯エンゲルベルト1世(ドイツ語版、英語版)は大司教エンゲルベルト2世フォン・ファルケンブルク(ドイツ語版)の姪と結婚し、1268年に岳父に仲裁を頼んだ。堀や壁が造られ、村は都市となった。これに伴い、様々な権利や特権が徐々に与えられていった。1268年に都市となったが、小都市を意味する oppidum という記述は1278年以前にはなされていない。この年にマルク伯エーバーハルト(ドイツ語版、英語版)は大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルク(ドイツ語版、英語版)から、壁を取り壊し、堀を埋めるよう命令を受けた。しかしこの命令は、翌年にレーエンとして委託されることで回避された。1288年のヴォリンゲンの戦い(ドイツ語版、英語版)の後、ケルンの影響力はほとんど失われていった。 1287年に初めて市議会について記録され、1351年には官選の首長 (Proconsules et consules) が2人同時にいたことが証明されている。これはドルトムントと比肩しうる体制であった。名前が判っている最初の首長 (Vrolich Hake) はヘルシャイト教会文書録中の1396年の文書に記述されている。ドルトムントをモデルとした都市行政組織は1462年までの長年にわたって形成されていった。首長の他に、それぞれ選出された6人の市民からなる「ラート」(参事会)と「ゲマイネ」(平民会)が設けられた。市場開催特権は1425年に与えられた。当初は1年に3回であったが、1533年からは1年に4回開催できるようになった。 現在のシュテルン広場付近に1491年までに2つめの礼拝施設として十字架礼拝堂が建設された(1885年に取り壊された)。リューデンシャイトは1248年にはゾースト付属のハンザ都市として記述されている。1549年からはウナ(ドイツ語版、英語版)と都市同盟を結んだ。マルク伯による権力掌握が不安定であったため、市当局は1563年から1578年までの間に宗教改革を受け容れた。リューデンシャイトはルター派信仰を表明した。
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