邸宅への改装
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修道院が1539年に接収された後、40年ほどの間にこの建物は数多くの所有者を経ることとなった。1581年、この建物はサー・ジョン・ハリントン・オブ・エクストン(英語版)が所有するところとなり、彼はこの修道院を、イングランド有数の邸宅のひとつに改装した。 ハリントンは、スコットランドを出自としており、ロバート・ブルースの血を引いていた。スコットランド王ジェームズ1世がイングランド王となったとき、ハリントンは、その出自を使って王にとりいった。1603年、ジェームズ王は娘であるエリザベス王女をコーンブ・アビーに送って、住まわせた。王は勅許状を発し、「我々は、我らの娘であるレディ・エリザベスの養育と教育をハリントン卿夫妻に委ねることがふさわしいと考えるに至った (we have thought fit to commit the keeping and education of the Lady Elizabeth our daughter to Lord Harington and the Lady his wife)」と宣言した。以降、5年間にわたってエリザベスはアビーに住んだ。彼女の教師兼チャプレンとなったのは、コヴェントリーのフリー・スクール (the Free School at Coventry) の校長だったマスター・ジョン・トヴィー (Master John Tovey) であった。エリザベスのお気に入りとなった幼少期の遊び相手は、ハリントン卿の姪アン・ダドリー(英語版)であり、ふたりの交友はその後長く続いた。 1604年、有名な火薬陰謀事件が明るみになった。これは、ジェームズ王をふたりの王子ともども亡き者として、エリザベスを女王に立てようという企てであった。さらにこの企ては、エリザベスを拉致し、彼女が幼いことを理由にカトリックの摂政を置いて国政に当たりながら、彼女にカトリックの教育を施し、将来はカトリック教徒と結婚させようとするものであった。彼女がコーンブ・アビーで無防備になるよう、カトリックのジェントリーが、1605年11月6日に、コーンブから数マイルのダンチャーチ (Dunchurch) という場所で狩猟の競技会を開くと称してハリントン卿を招いた。 陰謀者たちがコーンブへ向かう中、その日の朝いち早く蜂起の報を受け取ったハリントン卿は、エリザベスをコヴェントリーの城壁内にいたサー・トマス・ホルクロフト(英語版)の元へと送った。警護のため、市長とともに市民9人が騎乗の上で、市の武器庫から弓矢やパイクを持ち出し、任務にあたった。このため、陰謀者たちがコーンブへ到着したときには、エリザベスは既に脱出しており、自分たちの企てが露見したことを悟った彼らは逃亡した。彼らのほとんどは逃亡しきれず殺されたが、少数は捕縛されてロンドンに送られた上で、処刑された。1613年、エリザベスは、後にボヘミア王となるフリードリヒと結婚し、やがてボヘミア王妃となった。 ジョン・ハリントンは1613年に死去し、その後、建物の所有権は変更を重ね、1622年に至ってアビーはロンドン市長サー・ウィリアム・クレイヴン(英語版)の未亡人レディ・エリザベス・クレイヴン (Lady Elizabeth Craven) の所有するところとなり、彼女はこれを息子に遺産として残した。以降300年にわたって、この建物はクレイヴン家が継承することとなった。
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邸宅への改装
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修道院が1539年に接収された後、40年ほどの間にこの建物は数多くの所有者を経ることとなった。1581年、この建物はサー・ジョン・ハリントン・オブ・エクストン(英語版)が所有するところとなり、彼はこの修道院を、イングランド有数の邸宅のひとつに改装した。 ハリントンは、スコットランドを出自としており、ロバート・ブルースの血を引いていた。スコットランド王ジェームズ1世がイングランド王となったとき、ハリントンは、その出自を使って王にとりいった。1603年、ジェームズ王は娘であるエリザベス王女をクーム・アビーに送って、住まわせた。王は勅許状を発し、「我々は、我らの娘であるレディ・エリザベスの養育と教育をハリントン卿夫妻に委ねることがふさわしいと考えるに至った (we have thought fit to commit the keeping and education of the Lady Elizabeth our daughter to Lord Harington and the Lady his wife)」と宣言した。以降、5年間にわたってエリザベスはアビーに住んだ。彼女の教師兼チャプレンとなったのは、コヴェントリーのフリー・スクール (the Free School at Coventry) の校長だったマスター・ジョン・トヴィー (Master John Tovey) であった。エリザベスのお気に入りとなった幼少期の遊び相手は、ハリントン卿の姪アン・ダドリー(英語版)であり、ふたりの交友はその後長く続いた。 1604年、有名な火薬陰謀事件が明るみになった。これは、ジェームズ王をふたりの王子ともども亡き者として、エリザベスを女王に立てようという企てであった。さらにこの企ては、エリザベスを拉致し、彼女が幼いことを理由にカトリックの摂政を置いて国政に当たりながら、彼女にカトリックの教育を施し、将来はカトリック教徒と結婚させようとするものであった。彼女がクーム・アビーで無防備になるよう、カトリックのジェントリーが、1605年11月6日に、クームから数マイルのダンチャーチ (Dunchurch) という場所で狩猟の競技会を開くと称してハリントン卿を招いた。 陰謀者たちがクームへ向かう中、その日の朝いち早く蜂起の報を受け取ったハリントン卿は、エリザベスをコヴェントリーの城壁内にいたサー・トマス・ホルクロフト(英語版)の元へと送った。警護のため、市長とともに市民9人が騎乗の上で、市の武器庫から弓矢やパイクを持ち出し、任務にあたった。このため、陰謀者たちがクームへ到着したときには、エリザベスは既に脱出しており、自分たちの企てが露見したことを悟った彼らは逃亡した。彼らのほとんどは逃亡しきれず殺されたが、少数は捕縛されてロンドンに送られた上で、処刑された。1613年、エリザベスは、後にボヘミア王となるフリードリヒと結婚し、やがてボヘミア王妃となった。 ジョン・ハリントンは1613年に死去し、その後、建物の所有権は変更を重ね、1622年に至ってアビーはロンドン市長サー・ウィリアム・クレイヴン(英語版)の未亡人レディ・エリザベス・クレイヴン (Lady Elizabeth Craven) の所有するところとなり、彼女はこれを息子に遺産として残した。以降300年にわたって、この建物はクレイヴン家が継承することとなった。
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