邸宅への改装とは? わかりやすく解説

邸宅への改装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 08:06 UTC 版)

コーンブ・アビー」の記事における「邸宅への改装」の解説

修道院1539年接収された後、40年ほどの間にこの建物数多く所有者を経ることとなった1581年、この建物はサー・ジョン・ハリントン・オブ・エクストン(英語版)が所有するところとなり、彼はこの修道院を、イングランド有数邸宅のひとつに改装したハリントンは、スコットランド出自としており、ロバート・ブルース血を引いていた。スコットランド王ジェームズ1世イングランド王となったとき、ハリントンは、その出自使って王にとりいった。1603年ジェームズ王は娘であるエリザベス王女コーンブ・アビー送って、住まわせた。王は勅許状発し、「我々は、我らの娘であるレディ・エリザベスの養育教育ハリントン夫妻委ねることがふさわしいと考えるに至った (we have thought fit to commit the keeping and education of the Lady Elizabeth our daughter to Lord Harington and the Lady his wife)」と宣言した以降5年間にわたってエリザベスアビー住んだ。彼女の教師チャプレンとなったのは、コヴェントリーフリー・スクール (the Free School at Coventry) の校長だったマスター・ジョン・トヴィー (Master John Tovey) であったエリザベスお気に入りとなった幼少期遊び相手は、ハリントン卿の姪アン・ダドリー英語版)であり、ふたりの交友その後長く続いた1604年有名な火薬陰謀事件明るみになった。これは、ジェームズ王をふたりの王子ともども亡き者として、エリザベス女王立てようという企てであった。さらにこの企ては、エリザベス拉致し、彼女が幼いことを理由カトリック摂政置いて国政に当たりながら、彼女にカトリック教育施し将来カトリック教徒結婚させようとするものであった。彼女がコーンブ・アビー無防備になるよう、カトリックジェントリーが、1605年11月6日に、コーンブから数マイルのダンチャーチ (Dunchurch) という場所で狩猟競技会を開くと称してハリントン卿を招いた陰謀者たちがコーンブへ向かう中、その日の朝いち早く蜂起の報を受け取ったハリントン卿は、エリザベスコヴェントリー城壁内にいたサー・トマス・ホルクロフト(英語版)の元へ送った警護のため、市長とともに市民9人が騎乗の上で、市の武器庫から弓矢パイク持ち出し任務あたったこのため陰謀者たちがコーンブへ到着したときにはエリザベスは既に脱出しており、自分たちの企て露見したことを悟った彼らは逃亡した。彼らのほとんどは逃亡しきれず殺されたが、少数捕縛されロンドン送られ上で処刑された。1613年エリザベスは、後にボヘミア王となるフリードリヒ結婚し、やがてボヘミア王となった。 ジョン・ハリントンは1613年死去しその後建物所有権変更重ね1622年至ってアビーロンドン市長サー・ウィリアム・クレイヴン(英語版)の未亡人レディ・エリザベス・クレイヴン (Lady Elizabeth Craven) の所有するところとなり、彼女はこれを息子遺産として残した以降300年わたって、この建物クレイヴン家継承することとなった

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邸宅への改装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 02:40 UTC 版)

クーム・アビー」の記事における「邸宅への改装」の解説

修道院1539年接収された後、40年ほどの間にこの建物数多く所有者を経ることとなった1581年、この建物はサー・ジョン・ハリントン・オブ・エクストン(英語版)が所有するところとなり、彼はこの修道院を、イングランド有数邸宅のひとつに改装したハリントンは、スコットランド出自としており、ロバート・ブルース血を引いていた。スコットランド王ジェームズ1世イングランド王となったとき、ハリントンは、その出自使って王にとりいった。1603年ジェームズ王は娘であるエリザベス王女クーム・アビー送って、住まわせた。王は勅許状発し、「我々は、我らの娘であるレディ・エリザベスの養育教育ハリントン夫妻委ねることがふさわしいと考えるに至った (we have thought fit to commit the keeping and education of the Lady Elizabeth our daughter to Lord Harington and the Lady his wife)」と宣言した以降5年間にわたってエリザベスアビー住んだ。彼女の教師チャプレンとなったのは、コヴェントリーフリー・スクール (the Free School at Coventry) の校長だったマスター・ジョン・トヴィー (Master John Tovey) であったエリザベスお気に入りとなった幼少期遊び相手は、ハリントン卿の姪アン・ダドリー英語版)であり、ふたりの交友その後長く続いた1604年有名な火薬陰謀事件明るみになった。これは、ジェームズ王をふたりの王子ともども亡き者として、エリザベス女王立てようという企てであった。さらにこの企ては、エリザベス拉致し、彼女が幼いことを理由カトリック摂政置いて国政に当たりながら、彼女にカトリック教育施し将来カトリック教徒結婚させようとするものであった。彼女がクーム・アビー無防備になるよう、カトリックジェントリーが、1605年11月6日に、クームから数マイルのダンチャーチ (Dunchurch) という場所で狩猟競技会を開くと称してハリントン卿を招いた陰謀者たちがクームへ向かう中、その日の朝いち早く蜂起の報を受け取ったハリントン卿は、エリザベスコヴェントリー城壁内にいたサー・トマス・ホルクロフト(英語版)の元へ送った警護のため、市長とともに市民9人が騎乗の上で、市の武器庫から弓矢パイク持ち出し任務あたったこのため陰謀者たちがクームへ到着したときにはエリザベスは既に脱出しており、自分たちの企て露見したことを悟った彼らは逃亡した。彼らのほとんどは逃亡しきれず殺されたが、少数捕縛されロンドン送られ上で処刑された。1613年エリザベスは、後にボヘミア王となるフリードリヒ結婚し、やがてボヘミア王となった。 ジョン・ハリントンは1613年死去しその後建物所有権変更重ね1622年至ってアビーロンドン市長サー・ウィリアム・クレイヴン(英語版)の未亡人レディ・エリザベス・クレイヴン (Lady Elizabeth Craven) の所有するところとなり、彼女はこれを息子遺産として残した以降300年わたって、この建物クレイヴン家継承することとなった

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