遺児に関する諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 23:56 UTC 版)
趙㬎が謎の死を遂げたことで噂が出回っている。その噂とは、元の第11代皇帝で、延祐7年(1320年)に生まれたトゴン・テムル(恵宗)は実は第9代皇帝コシラ(明宗)の実子ではなく、趙㬎がトルコ系の女性との間に儲けた遺児であるというものである。この噂が趙㬎の死の原因に関係があるともいわれる。 この説との関連性が指摘されているのが、元を滅ぼして建国された明朝の第3代皇帝である永楽帝の出自に関する説である。すなわち、永楽帝の生母は大元ウルスの恵宗トゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、したがって、永楽帝はトゴン・テムルの子であるというもので、モンゴル史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』に記され、中国でも同様の説が広まっている。上記のトゴン・テムルは恭帝の遺児であるという説との関連を指摘する周清澍(内モンゴル大学)などの研究者も存在する。 永楽帝の生母は公式には永楽帝の父の洪武帝の皇后であった孝慈高皇后馬氏とされているが、実際には高麗貢女の碽妃だったとする説がある。永楽帝は生母の身分が卑しいことに劣等感を持ち、靖難の変の頃から洪武帝の皇后でった馬氏が母親であると僭称した、とするものである。寺田隆信によると、永楽帝の生母について「元の順帝の妃説」「馬皇后説」「碽妃説」「達妃説」など5説前後に分けられるとするが、寺田隆信は「今日となっては調査する材料もない」として諸説を紹介するにとどめている。永楽帝の生母が碽妃であるという記述は清王朝の初めに編纂された談遷の『国榷』という書物にあり、皇室の儀礼を司る太常寺が編纂した『南京太常寺志』に書いてあったと記されている。また、永楽帝は父の洪武帝の実録である『明太祖実録(中国語版)』の出来が自身に都合が悪いことがあったらしく気に入らず、3回も編纂し直しを命じている所からみて、自身に都合の悪い記述を永楽帝が改竄している可能性は否定できず、十分に有り得る話である。『明太祖実録(中国語版)』のなかには、「碽妃は永楽帝が生まれてから5年後に中国に来た」という記述があるが、永楽帝が記述に脚色を加えたり、粉飾を行ったという疑いが濃厚である以上、容易く信頼できない。 ちなみに公式に馬氏を生母とする洪武帝の子女は永楽帝の他に、朱標(建文帝の父)・朱樉・朱棡・寧国公主・朱橚・安慶公主の6人が記録されているが、寧国公主と安慶公主以外の子女の生母は別にいるという説が唱えられており、永楽帝以外の男子4人にも生母に関して疑義が呈されている。
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