違憲審査制の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 20:34 UTC 版)
アメリカでは1803年のマーベリー対マディソン事件における連邦最高裁判所の首席裁判官ジョン・マーシャルの意見により、違憲審査制が確立したとされる。これはアメリカでは、イギリス議会が制定した圧制的な法律に対する反発により独立を果たした経緯があるため、元来立法権に対する不信の思想が強く、議会が制定した法律に対する違憲審査制も受け入れられやすかったためと考えられる。 これに対して、ヨーロッパ諸国においては、議会が制定する法律により行政権や司法権に制約を加え、それにより国民の人権を保障する考え方が立憲主義の中核と理解されていた。そのため、立憲主義が確立した当初は、議会が制定した法律の合憲性を審査する制度の導入は、民主主義や権力分立に反するものとして消極的に捉えられていた。 しかし、このような議会中心主義の考え方は第一次世界大戦後には動揺しはじめ、ケルゼンの起草にかかる1920年オーストリア共和国憲法において憲法裁判所制度の導入が試みられる。さらにはナチズムの台頭・政権掌握によって議会の立法で重大な人権侵害が発生した(ヒトラーは議会の立法によって権力を掌握して「議会によって権限を与えられた指導者」の指令としてホロコーストやT4作戦を実行した)ことの反省から、第二次世界大戦後、ドイツを中心に違憲審査制が広く導入されるようになった。
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