通常の器台・壺から特殊器台・特殊壺へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/23 05:36 UTC 版)
「特殊器台・特殊壺」の記事における「通常の器台・壺から特殊器台・特殊壺へ」の解説
弥生時代最初期から壺形土器が、少し後に器台が現れる。器台はサイズが大きく、装飾性が強いことなどから日常的には使用されなかった道具と考えられる。器台は壺、甕、皿などさまざまな器物を載せるためのものであるが、壺に比し出土数はきわめて少ない。弥生時代中期頃になると壺とともに器台が各地で見つかるようになり、器台に壺などを載せて、祭祀に使われたのではないかと推測される。 収穫祭には、収穫された米で作った酒や新米で作った粥を壺に入れたり、さまざまな形の器台に収穫物を載せ、神を招き、神の前で、ともに飲食し、神に収穫の感謝や願いごとをしたのではないかと想像できる。そのような儀式を相嘗(あいなめ)、直会(なおらい)といった。これらの儀式を、血縁があり、集落の人々と親しかった首長が取り仕切って、酒を飲み、食べ物を分け、また、穀霊や田の神、水の神、山の神、土地の神などさまざまな神に酒や食べ物を捧げたり、祈祷をしたのではないだろうか[要出典]。この祭祀の道具立てとして器台と壺が、弥生時代の中期に主に西日本で広く使われるようになった。 この頃の普通器台は器形が比較的長く細身だが、後期前葉には、次第に重量感のあるものに変化していく。後期後葉になると、器台は非常に重量感を増して全体に文様(鋸歯文、沈潜文)が描かれるようになり、上部と裾の間が長い筒状になり、方形の透かし孔も見られるようになる。壺は、首の長いハの字の形になり、この要素は特殊壺に引き継がれる。後期中葉から後期後葉に遷る頃の器台と壺の中から、特殊器台と特殊壺が生まれる。この二つは備中南部に現れ、吉備中に広がっていく。特殊器台と特殊壺が出現する頃になると、吉備では村々で普通の器台と壺はほとんど使われなくなる。
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