逃した五輪代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/16 21:38 UTC 版)
世界選手権翌年の1994年、4月の講道館杯では順当に勝ち上がり優勝したものの、6月の正力杯(現・全日本学生体重別選手権)では決勝戦で当時まだ無名だった天理大学の野村忠宏に朽木倒で敗れる不覚を取った。秋の広島アジア大会では決勝戦で韓国の金赫に1-2の微妙な判定で敗れて2位に終わった。スランプに陥ったこの頃を園田は「世界選手権で優勝した事で柔道が空回りしてしまった」と表現する。 ディフェンディングチャンピオンとして臨む1995年の世界選手権では、準決勝でロシアのニコライ・オジョギンに肩車の有効で敗れて3位止まり。 1996年、警視庁に入庁。オリンピック代表選考を兼ねた同年4月の全日本選抜体重別選手権には、1歳年下の徳野和彦を警戒して出場するが、決勝戦で当たったのは2年前の学生選手権で苦杯を嘗めさせられた天理大4年の野村だった。試合では右釣り手を取り合って牽制し合い、両者とも決定的なポイントがなく旗判定に持ち込まれた。結局0-3の判定で敗れた園田はオリンピック代表を逃す事となるが、長年の目標を見失った園田は、23歳という若さながらこの時点で引退も考えたという。また入庁1年目の警視庁でも「五輪に出られないなら辞めろ」と言われるなどしたが、警視庁の先輩で、同じく五輪出場が叶わなかった吉村和郎や持田達人らから励まされ翌97年の世界選手権を目標に現役を続行した。出場を逃したアトランタ五輪について園田は、雑誌『近代柔道』のインタビューで「(全日本体重別選手権で)自分が負けて出場を逃したのだから悔いはない」「野村の柔道が優っていた」としつつも、「五輪に出場さえできていれば勝てていたという思いもある」と述べている。 1997年にはドイツ国際大会で優勝し、4月の全日本選抜体重別選手権で準優勝。階級を66kg級に上げてからも、講道館杯で97および98年に3位,2000年準優勝、全日本選抜体重別選手権でも98年準優勝,99年3位と一定の活躍はするものの、中村行成や鳥居智男など同年代のライバルが鎬を削る当時の軽中量級において、再び世界選手権代表の切符を射止めるには至らなかった。。 2002年の全国警察選手権への出場を最後に引退。
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