逃した世界選手権出場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:25 UTC 版)
「金野潤 (柔道)」の記事における「逃した世界選手権出場」の解説
大学卒業後は綜合警備保障へ。1989年の太平洋選手権や1994年のアジア大会など国際大会で優勝するも、前述の通り小川が最大の壁となって世界選手権やオリンピックへの出場は叶わなかった。 国内最高峰の柔道大会といえる全日本選手権でも1990年3位、1991年は吉田秀彦を蟹挟で破って準優勝と安定した成績を残し、1992年こそ坐骨神経痛や肉離れにより初戦となる2回戦で三谷浩一郎に敗れたものの、同大会連覇中の小川を追う最有力候補とされた。 9月に第18回世界選手権開催を控えた1993年には、4月の全日本選手権で準優勝して小川とともに重量級・無差別級の代表確実と目された。しかし5月の全日本選抜体重別選手権で金野は関根英之に敗れ、土壇場で世界への切符を逃がしてしまう。この時の事を金野は「4月の全日本選手権の結果から代表は小川と金野で決まりという雰囲気に流され、心の中に油断が生まれた」と述懐し、練習後には慢心から家で笑みすら浮かべていた当時の自分を悔いて「あれほど自分が情けなかった事はない」「自分で自分が許せなかった」と述べている。 柔道修行の一環としてサンボも経験していた金野は、世界選手権と同じ9月に開催された第19回全日本サンボ選手権大会(100 kg超級)に出場し、代表落選の鬱憤を晴らすかのように優勝を果たすのが精一杯だった。
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