近衞忠房とは? わかりやすく解説

近衛忠房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 18:48 UTC 版)

 
近衛 忠房
近衛忠房
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保9年8月6日1838年9月24日
死没 明治6年(1873年7月16日
別名 号:光山
官位 従一位左大臣
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛忠煕、母:郁姫島津斉興の養女)
兄弟 忠房常磐井堯熙水谷川忠起、総子、津軽尹子
養兄弟:篤麿藤原敬子広幡忠礼室、
備子文秀寧子
正室:島津光子島津斉彬の養女)
篤麿徳川泰子津軽英麿常磐井堯猷
テンプレートを表示

近衛 忠房(このえ ただふさ、旧字体近󠄁衞 忠房󠄁)は、幕末期の公家官位従一位左大臣。号は光山

経歴

関白近衛忠煕の四男。母は島津斉興の養女(実妹)・興子とされているが庶子との説もある。島津斉彬の養女が妻であったこと、さらに父も島津斉興の養女が妻であったことから、薩摩藩との関わりが深かった。弘化4年(1847年) 正五位上に叙任。同年、従四位下、左近衛権少将左近衛権中将と累進し、嘉永4年(1851年)、権大納言となり、文久2年(1862年)には国事御用掛左近衛大将左馬寮御監となる。文久3年(1863年内大臣に昇り、慶応3年(1867年)には左大臣となる[1]

しかし公武合体派である父の秘書的立場にあったので、討幕派が朝廷内の多数を占めると居場所がなくなり、官を辞することになった。さらに王政復古の大号令で新政府が発足すると父とともに参朝を停められた[1]。しかし間もなく許され、新政府で神祇事務総督、議定、刑法事務局督、神祇官知事、神祇大副を歴任した[2]。明治3年(1870年)に父を京都に残して東京へ移住したが、明治6年(1873年)、父に先立って36歳で死去した[3]。忠房の政治的活躍に望みをかけていた忠煕にとって息子の若くしての死は痛手だった[3]

忠房の息子である篤麿は父が東京に移住した後も京都にあって忠煕に育てられたが、まもなく宮内省の侍従職に任命されて東京へ移住し、その際に忠煕も東京へ移住した[3]

栄典

家族・親族

系譜

近衛家

近衞家は、藤原忠通の子である近衛基実を始祖とし、五摂家の一つであった。

皇室との関係

後陽成天皇男系10世子孫である。後陽成天皇の第四皇子で近衛家を継いだ近衛信尋の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

脚注

  1. ^ a b 杉森久英 1987, p. 15.
  2. ^ 杉森久英 1987, p. 15-16.
  3. ^ a b c 杉森久英 1987, p. 16.
  4. ^ 『官報』 第14号 「叙任」、1883年7月17日。

参考文献

登場作品

テレビドラマ

NHK大河ドラマ
民放
公職
先代
藤波教忠
神宮祭主
1871年 - 1872年
次代
三条西季知
先代
白川資訓
神祇大副
1870年 - 1871年
次代
(欠員→)福羽美静
先代
鷹司輔煕
神祇官知事
1868年 - 1869年
次代
中山忠能
先代
(新設)
刑法事務局
1868年
次代
山内豊信
刑法官知事



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

近衞忠房のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



近衞忠房のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの近衛忠房 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS