軍隊生活、剣道修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/14 04:19 UTC 版)
1913年(大正2年)、志願して陸軍歩兵第48連隊に入隊。 1914年(大正3年)、日独戦争青島の戦いに出征。 1918年(大正7年)及び1919年(大正8年)、第18師団長主催の銃剣術大会を連覇。 1919年(大正8年)3月、陸軍戸山学校に入校。同時に剣道を学ぶため高野佐三郎の修道学院に入門し、その5日後には居合を学ぶため中山博道の有信館に入門した。当時の剣道界の二大派閥である両道場を掛け持つことはタブーであったが、表だった問題は起きなかった。同年7月、陸軍戸山学校を卒業し、12月に陸軍幼年学校付を命じられ、同校で剣道を教える。 1923年(大正12年)、大日本武徳会から剣道精錬証を授与される。 1924年(大正13年)、歩兵第48連隊に剣道及び銃剣術の教官として復帰。 1925年(大正14年)から昭和初期にかけて福岡県立三潴中学校をはじめとする11校の嘱託剣道教師を兼務する。 1931年(昭和6年)、久留米市の自宅に「武揚館」道場を開き、ブリヂストン社長石橋正二郎が後援会長に就任した。 1937年(昭和12年)、剣道、居合術ともに教士に昇進。 1938年(昭和13年)、日中戦争に出征。右大腿部に弾丸を受けたが、ポケットに入っていた財布に当たり、重傷を免れた。その後は前線を退き、佐世保海兵団の助教を務め戦技武道を指導した。 長男徳一郎は海軍兵学校73期を卒業し海軍軍人となったが、1945年(昭和20年)、乗艦した軍艦香椎が撃沈され戦死した。
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