越前での混乱とは? わかりやすく解説

越前での混乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:53 UTC 版)

真宗高田派」の記事における「越前での混乱」の解説

永禄10年1567年)、越前朝倉氏本願寺和睦した。これによって越前国内で本願寺派布教許されるうになる加賀逃れていた本願寺派和田本覚寺藤島超勝寺越前復帰し高田派転属していた門徒たちもそのほとんどが本願寺派復帰して高田派大打撃受けた。その上元亀2年1571年6月には朝倉義景の娘と本願寺11顕如の子教如とが婚約し朝倉氏本願寺は対織田信長提携して益々強固に結びついていったため高田派は二派に分かれて争っている場合などではなかった。 天正元年1573年8月朝倉義景刀根坂の戦い信長大敗北を喫して越前国大野郡逃れてきたが、織田方に呼応した従兄弟朝倉景鏡によって自害させられ越前信長領土となった。 翌天正2年1574年)、1月富田長繁土一揆引き起こしたが、それが2月には本願寺七里頼周大将とする一向一揆越前一向一揆)に進展し、長繁を攻撃し始めたので高田派中立立場をとったが三門徒は長繁に味方した。が、長繁は討死して越前本願寺派支配することとなったので高田派逼塞余儀なくされた。そして越前支配者として本願寺坊官下間頼照派遣してきたが、ちょうどその頃一向一揆三門徒の寺や平泉寺朝倉景鏡攻め滅ぼし永平寺にも焼き討ち行った。二派に分裂して衰退していた高田派は特に一向一揆に対して逆らわなかったのでなんとか生き延びることができたのであった。 しかし、7月には織田方の羽柴秀吉菅屋長頼から高田派朝倉景健堀江景忠向けて織田軍が攻め込んだ時は味方をするようにとの書状送られてきており、織田方から反本願寺という立場期待されてもいたのである。 この同じ7月には下間頼照七里頼周やり方反発した一揆衆が頼照に攻め滅ぼされるなどしたため反発拡大して各所下間七里対す一向一揆発生し一揆一揆)、越前国内の混乱収拾がつかなくなっていった。 天正3年1575年8月織田軍が越前に再び攻め寄せるとすでに弱体化していた一揆軍各所崩壊し信長越前平定した。一揆軍指導者であった七里頼周はなんとか加賀撤退できたが、下間頼照逃げ遅れて潜伏する羽目になった。しかし、10月になって海から加賀脱出しようとして三国湊目指していたところ、坂井郡下野村高田派寺院黒目称名寺門徒に見つけられ、首をはねられた。他にも本願寺派の門徒が3から4万人ほど処刑される中、高田派苦境ひとまず去った。それでも、本願寺派門徒いまだに揉めている最中高田派宗旨替えをする者はごく少数であった。 そして11月一身田専修寺念願であった准門跡号が勅許された。第13世堯真のとなった天正10年1582年5月には前法主堯慧僧正から大僧正昇進した高田派では初めての大僧正への就任である。 天正13年1585年7月熊坂専修寺住持真智亡くなり跡を子の真空継いだが、真空も翌天正14年1586年5月亡くなって熊坂専修寺廃絶した。だが、高田専修寺から来た真能跡目継いで隣村畠中専修寺として再興させた。この間、堯真は真智派の越前四ヶ寺の切り崩し工作なども行った上手くいかなかった。本寺争い依然として終わっていないのである

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