越前での混乱
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永禄10年(1567年)、越前の朝倉氏は本願寺と和睦した。これによって越前国内で本願寺派の布教が許されるようになると加賀に逃れていた本願寺派の和田本覚寺と藤島超勝寺が越前に復帰し、高田派に転属していた門徒たちもそのほとんどが本願寺派に復帰して高田派は大打撃を受けた。その上、元亀2年(1571年)6月には朝倉義景の娘と本願寺第11世顕如の子教如とが婚約し、朝倉氏と本願寺は対織田信長で提携して益々強固に結びついていったため高田派は二派に分かれて争っている場合などではなかった。 天正元年(1573年)8月、朝倉義景は刀根坂の戦いで信長に大敗北を喫して越前国大野郡に逃れてきたが、織田方に呼応した従兄弟の朝倉景鏡によって自害させられて越前は信長の領土となった。 翌天正2年(1574年)、1月に富田長繁が土一揆を引き起こしたが、それが2月には本願寺の七里頼周を大将とする一向一揆(越前一向一揆)に進展し、長繁を攻撃し始めたので高田派は中立の立場をとったが三門徒は長繁に味方した。が、長繁は討死して越前は本願寺派が支配することとなったので高田派は逼塞を余儀なくされた。そして越前の支配者として本願寺は坊官の下間頼照を派遣してきたが、ちょうどその頃に一向一揆は三門徒の寺や平泉寺・朝倉景鏡を攻め滅ぼし、永平寺にも焼き討ちを行った。二派に分裂して衰退していた高田派は特に一向一揆に対して逆らわなかったのでなんとか生き延びることができたのであった。 しかし、7月には織田方の羽柴秀吉や菅屋長頼から高田派や朝倉景健・堀江景忠に向けて織田軍が攻め込んだ時は味方をするようにとの書状が送られてきており、織田方から反本願寺という立場を期待されてもいたのである。 この同じ7月には下間頼照や七里頼周のやり方に反発した一揆衆が頼照に攻め滅ぼされるなどしたため反発は拡大して各所で下間・七里に対する一向一揆が発生し(一揆内一揆)、越前国内の混乱は収拾がつかなくなっていった。 天正3年(1575年)8月、織田軍が越前に再び攻め寄せるとすでに弱体化していた一揆軍は各所で崩壊し、信長は越前を平定した。一揆軍の指導者であった七里頼周はなんとか加賀に撤退できたが、下間頼照は逃げ遅れて潜伏する羽目になった。しかし、10月になって海から加賀に脱出しようとして三国湊を目指していたところ、坂井郡下野村の高田派寺院黒目称名寺の門徒に見つけられ、首をはねられた。他にも本願寺派の門徒が3から4万人ほど処刑される中、高田派の苦境はひとまず去った。それでも、本願寺派の門徒でいまだに揉めている最中の高田派へ宗旨替えをする者はごく少数であった。 そして11月、一身田専修寺に念願であった准門跡号が勅許された。第13世堯真の代となった天正10年(1582年)5月には前法主堯慧が僧正から大僧正に昇進した。高田派では初めての大僧正への就任である。 天正13年(1585年)7月、熊坂専修寺住持の真智が亡くなり跡を子の真空が継いだが、真空も翌天正14年(1586年)5月に亡くなって熊坂専修寺は廃絶した。だが、高田専修寺から来た真能が跡目を継いで隣村に畠中専修寺として再興させた。この間、堯真は真智派の越前四ヶ寺の切り崩し工作なども行ったが上手くいかなかった。本寺争いは依然として、終わっていないのである。
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