越前の支配者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:13 UTC 版)
同年12月14日、長繁は宝円寺に兵士の陣取り禁止を命じるなど軍事行動を起こす兆しを見せ、また越前国内で一揆を扇動するために策を廻し、桂田の悪政に不満を持つ人物達と密かに会談を持った。 天正2年(1574年)1月18日に長繁は桂田の過酷な圧政に苦しむ民を扇動して大規模な土一揆を引き起こした。19日には総勢3万3,000人にまで膨らんだ一揆勢を自ら大将として率い、南北から一乗谷に侵攻して長俊を殺し、翌20日には三万谷へ向けて逃げていた長俊の家族も捕縛し悉く殺害した。 勢いに乗じて北ノ庄で代官を務めていた木下祐久・津田元嘉・三沢秀次らの詰める旧朝倉土佐守館も襲撃したが、安居景健、朝倉景胤らの説得により攻撃を止め、3人の命は取らず追放処分とし、同館の守備を毛屋猪介に任せている。また、同じく朝倉家臣であった魚住景固を警戒し、1月24日に景固とその次男の彦四郎を朝食に招きその席で両名を斬殺、翌25日には魚住氏の居城・鳥羽野城に攻め込み魚住一族を滅ぼした。しかし、敵対していたわけでも遺恨があったわけでもなかった上、仁者として領民に慕われていた魚住景固を無理矢理に討ったことは民衆の反発を招き、また他の旧朝倉家臣の将は警戒して面会にすら訪れなくなり、孤立し始める。
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