起義と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/03 18:46 UTC 版)
1947年(民国36年)、趙子立は陸軍大学兵学研究院中将兵学教官兼乙級将官班主任に起用された。1948年(民国37年)、第5綏靖区副司令官兼河南省保安副司令に任命される。9月、河南省政府委員(省政府主席:張軫)、12月には豫東行署主任もそれぞれ兼ねた。1949年(民国38年)4月、第19兵団(司令:張軫)副司令兼第127軍軍長に任ぜられ、人民解放軍を迎撃することになる。ところが5月に張が起義(反国民党蜂起)を行って国民党側から離脱、そのため趙が後任の河南省政府主席代理に任命された。趙にはもはや人民解放軍を迎撃する余力もなく、部隊を率いて重慶へ撤退する。そして12月25日、趙もまた四川省の巴中で起義を宣言した。 中華人民共和国での趙子立は西南軍政大学高級研究班に入学、卒業後は南京軍事学院で高級系第1組戦術教師を務めた。1953年に反革命を疑われて捜査対象となったが、後に無実を証明される。1961年、中国人民政治協商会議全国文史専員となった。1975年3月、起義人員として政府から承認される。1978年、政治協商会議第5期全国委員会委員となり、1983年に同全国委員会第6期常務委員に昇任した。1988年、第7期でも同じく常務委員を務め、さらに中国国民党革命委員会(民革)で中央監察委員会常務委員となる。1992年2月1日、北京市で病没。享年85。
※この「起義と晩年」の解説は、「趙子立」の解説の一部です。
「起義と晩年」を含む「趙子立」の記事については、「趙子立」の概要を参照ください。
- 起義と晩年のページへのリンク