起草から採択まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 10:19 UTC 版)
ちょうどこの頃の世界情勢は、ポーランドの改革推進派に味方した。ポーランドの周辺国は、オスマン帝国など他国との戦争と国内の諸問題の対処に精一杯になり、ポーランドへの干渉が弱まった。1788年10月6日に開会し1792年まで続いた4年議会(偉大な議会)と呼ばれる議会は、任意拒否権が適用されない連合議会であり、この絶好の機会をとらえて改革を進めた。プロイセンとの同盟によってロシアの干渉が減った時期に、スタニスワフ2世は改革を志す愛国党の指導者達を身近に引き入れ、1790年に議会は新議員を加えて約2倍となった。スタニスワフ2世は新憲法作成を手がけ、スタニスワフ・マワホフスキ、イグナツィ・ポトツキ、フーゴ・コウォンタイ、スタニスワフ・スタシツ、および、王のイタリア人秘書シピオーネ・ピアットーリ等によって草案が起草された。 新憲法の政府決議の採択は、ほとんどクーデターといえる状況だった。政府決議のための討議は、議会のモスクワ党(ヘットマンとも呼ばれる)からの暴力による反対の恐れもある中、当初予定の5月5日を2日繰り上げ、多くの反対派議員がまだ復活祭で休んでいる5月3日に行われた。改革推進派の議員たちは早い時間に人目につかないよう議場である王宮に入った。モスクワ党による妨害を防ぐために王宮の周りに近衛兵が配備される中、新憲法に関する討議が行われ、採択された。そして、外に集まった熱狂的な群衆に対し、新憲法を政府決議した宣言が高らかに読み上げられた。
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