赤いウクライナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:30 UTC 版)
「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事における「赤いウクライナ」の解説
1922年12月26日、共和国革命戦時委員会は、アドミラール・ナヒーモフに対しチェルヴォーナ・ウクライィーナ(Червона Україна)という新しい名称を与えることを決定した。これは、「赤いウクライナ」という共産主義的な名称であったが、それと同時にソ連艦艇としては他に例を見ないウクライナ語による名称であった。この背景には、1920年代に採られたソ連のウクライナ懐柔政策があった。 ロシアとウクライナの間に行われた激しい戦争やウクライナ内戦の影響もあり、戦後ウクライナにおける対ロシア感情は最悪のものとなっていた。当初は強硬に反ウクライナ的な態度を取っていたロシア政府であったが、1922年12月29日のソ連結成に前後して、国内に火種を残すことへの懸念からウクライナへの懐柔政策を採るようになっていた。そのために行われたのが「ウクライナ化」であり、ウクライナ文化の研究やウクライナ語使用の奨励がなされたのが1920年代であった。ウクライナ化政策が正式に施行されるのは1923年からであるが、チェルヴォーナ・ウクライィーナが敢えてウクライナ語名の艦名を戴いたのも、こうした事情に関連したものであった。これは、かつてのヘチマン政府がこの艦にボフダン・フメリニツキーの名を与えたのと同じ経緯であった。 1923年4月1日、ニコラーエフの国営工場はアドミラール・ナヒーモフの建造を再開した。財政及び技術的な問題から計画は当初のものに基づくものとされたが、その後、いくらか改善が加えられることになった。その結果、防雷具(パラヴェーン)や水上飛行機搭載設備が追加され、対空火器も強化された。また、魚雷発射管も旧来の水中発射式のものに替えて艦上に3連装のもの4 基を搭載した。これは、当時としては重雷装艦と呼べる強力な装備で、本格的な水雷戦を視野に入れたものであった。1926年夏までに作業は完了した。1927年3月21日、チェルヴォーナ・ウクライィーナは実戦配備に就いた。
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