資金・人材の調達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 14:35 UTC 版)
安政元年3月(1854年3月 - 4月)、水戸藩は鉄製大砲の製造のために反射炉を建設する資金として1万両の借り入れを江戸幕府に申し入れた。その頃幕府は品川に台場を建設していたが、肝心の大砲は、韮山反射炉の完成が見通せず、佐賀藩に発注している状態であった。受注した佐賀藩も多布施反射炉が完成したばかりで未だ軌道に乗っておらず、大砲の完成時期は不透明であった。そこで幕府は、水戸藩にも造らせてみようと考え、申し出からわずか1か月後に1万両を貸し付けた。 斉昭は幕府から借り入れる際に、借りた分は大砲にして返し、事業が失敗に終わった場合は自らの隠居米から年賦で返すという提案を行っているように、反射炉建設に熱意を持っていた。しかし、先行して反射炉を建設していた佐賀藩や薩摩藩のように差し迫った事情がなく、財政難に加え、斉昭の思い入れだけで進められたことから、藩の役人の建設意欲は低かった。その上、斉昭の洋学軽視の影響で藩内に反射炉の知識を持つ人材がおらず、他藩から指導に来てもらう必要があった。 まず、斉昭が重用していた藤田東湖と交遊のあった三春藩士の熊田嘉膳(熊田嘉門)を招き、熊田は大島高任と竹下清右衛門を仲介した。大島は盛岡藩で御鉄砲役を務めていた人物で、蘭学を修め、書物から得た知識が豊富であった。竹下は薩摩藩の鋳砲技術者であり、反射炉の築造にも関わった経験を持っていた。3人は安政元年5月7日(1854年6月2日)に江戸・小石川の水戸藩邸で東湖と面会し、5月12日(6月7日)に水戸へ出立した。この時竹下は鹿児島から煉瓦(れんが)職人の福井仙吉を伴っており、鹿児島に派遣されていた飛田与七も帯同した。
※この「資金・人材の調達」の解説は、「那珂湊反射炉」の解説の一部です。
「資金・人材の調達」を含む「那珂湊反射炉」の記事については、「那珂湊反射炉」の概要を参照ください。
- 資金・人材の調達のページへのリンク