豊橋市長時代
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1925年(大正14年)10月には吉川一太郎市長の下で豊橋市助役に就任した。とはいえ、助役就任時には市会で「市長も面識なき様」と突っ込まれるほどであり、吉川市長の意思に反する助役就任であるとささやかれた。同年12月に吉川市長が病気を理由に辞任すると、後任市長が決定しないままダラダラと数カ月が過ぎる間は田部井が市長代行を務めている。その後、豊橋市会の最大派閥であり大口が率いる同志派に推されて豊橋市長選挙に出馬し、1926年(大正15年)8月5日には吉川の後任の豊橋市長に就任した。当時の市長選挙は豊橋市会での多数決であり、田部井は33票中22票を集めている。 豊橋市長時代には水道事業で大きな成果を残しており、1927年(昭和2年)に起工した豊橋市上水道は1929年(昭和4年)に通水している。1927年(昭和2年)には豊橋市立女子商業専修学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)を開校させ、1929年(昭和4年)には夜間商業専修学校を開校させている。1928年(昭和3年)には渥美郡役所跡に豊橋市役所を移転させ、1929年には豊橋駅西口を開設させた。田部井の在任中は昭和恐慌の不況下だったが、1930年(昭和5年)には豊橋市産業博覧会を開催した。
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