謎の生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/30 08:46 UTC 版)
「ファリードゥッディーン・アッタール」の記事における「謎の生涯」の解説
チェコのペルシア語文学研究者リプカ Jan Rypka の評によれば、代表的なスーフィー詩人としてハキーム・サナーイー、アッタール、ジャラール・ウッディーン・ルーミーをあげている。ペルシア神秘主義三大詩人、三大スーフィーの一に数えられ、アッタールとサナーイーはペルシアの神秘主義を築き、二大スーフィー詩人の一人でもある。特にルーミーはサナーイーとアッタールを先達として仰ぎ、自らを彼らの精神的後継者と任じていた。ルーミーが戦乱を逃れて幼年時代に家族とともに生地バルフからニーシャープールへ逃れて来た時期に、晩年のアッタールより手ずから自作の詩集『神秘の書(Asrār Nāma)』を贈られたという。神学者のナスィールッディーン・トゥースィーはニーシャープール滞在時代に詩学をアッタールから学んだとされるが定かではない。 アッタールの詳しい伝記は死後数世紀経ったものしか知られておらず、ティムール朝宮廷で活躍した15世紀後半の神秘主義詩人、ジャーミーの神秘主義聖者列伝『親交の息吹き(Nafaḥāt al-Uns min ḥaḍarāt al-quds)』(1476年)や同じくダウラト・シャー・サマルカンディーの『詩人伝(Tadhkira al-Shuʿarāʾ)』(1486年)が最も早いアッタールの伝記である。ジャーミーによると生年は記していないが、ヒジュラ暦627年(1229年 - 1230年)に異教徒のタタールつまりモンゴル人によって殺害され、このとき114歳であったという。サマルカンディーの『詩人伝』は興味深い逸話が豊富なものの歴史的な誤りが多く悪名高い作品だが、それによると、アッタールはセルジューク朝のサンジャル(在位 1118年 - 1157年)の治世晩年のヒジュラ暦513年(1119年)に誕生し、ヒジュラ暦627年に114歳でモンゴル兵の手に掛かって殺害された、としている。伝統的に長らくこのモンゴルによる殺害と114歳死亡説が信じられて来た。しかし、後述のように現在では114歳死亡説はほぼ否定されている。イランで20世紀に代表的なアッタール研究者にナフィースィーとフォルーザーンファルがおり綿密な文学作品研究を行っているが、両者の研究でも没年については確定までは至っておらず、ナフィースィーはアッタールの生没年をヒジュラ暦537年(1142年)から627年(1230年)、フォルーザーンファルはヒジュラ暦540年(1145年)から618年(1221年)であろう、としている。
※この「謎の生涯」の解説は、「ファリードゥッディーン・アッタール」の解説の一部です。
「謎の生涯」を含む「ファリードゥッディーン・アッタール」の記事については、「ファリードゥッディーン・アッタール」の概要を参照ください。
- 謎の生涯のページへのリンク