諏訪・小諸での教育実践と対立
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「伊藤長七」の記事における「諏訪・小諸での教育実践と対立」の解説
1898年、上諏訪・四賀組合立諏訪高等小学校の教諭に着任すると、新進気鋭の青年教育者として、新教育を自ら実践していった。 登山遠足、野営活動、雪中行進、雪投げ合戦、氷上運動、さらに、長七の主唱で諏訪郡連合大運動会を開催するなど、前例のない学校活動を次々と打ち出していった。試験を廃止し、休憩時間は職員室を出て校庭に出て児童と運動した。同年の秋には、宮沢国穂、三村安治、守屋喜七と共に諏訪教育大会を開催。長七は「体育運動の奨励と活動主義の教育」との題目で論じ、従来の形式主義・厳粛主義の教育を排することを主張した。 こうした新教育の実践は、旧来の教育思想を持つ教育者と衝突を生んだ。長七は「主義方針等現任校長ト意見ヲ異ニシ為ニ往々其指揮命令ヲ遵守セス」とされ、1899年、下諏訪高等小学校に転任させられた。しかし、転任先でも、新教育を貫く長七と、旧来の教育思想を持つ校長とで衝突し、半年で岡谷高等小学校に転任させられた。ここでも教育思想が相いれず、次第に孤立していった長七は、辞職を余儀なくされた。 あまりにも革新的な教育と長七の言動が諏訪郡内に知れ渡り、諏訪郡内での受け入れ校は皆無であった。教師職を解任される危機であったが、群外の小諸小学校の伴野文太郎の助けを受け、1900年、小諸高等小学校に着任。教育界を追放される危機を脱した。 長七は、年度途中より校長職に就いた佐藤寅太郎の理解もあり、小諸高等小学校でも変わらずに新教育を次々と実践していった。当時の教え子には、小山邦太郎(後の陸軍政務官・小諸市長)らがおり、わずか1年間の教師生活ながら、その後の小諸時代の教え子との交流は「立志同級会」として長く続いた。1年間の小諸生活の後、長野師範学校の校長からの推薦を得て、念願の東京高等師範学校への進学を叶えた。長七は小諸を去るにあたって、3年間の信州での生活や雄大な自然への思い込め、「小諸を去る辞」を詠んでいる。
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