諏訪・小諸での教育実践と対立とは? わかりやすく解説

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諏訪・小諸での教育実践と対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 00:32 UTC 版)

伊藤長七」の記事における「諏訪・小諸での教育実践と対立」の解説

1898年上諏訪四賀組合立諏訪高等小学校教諭着任すると、新進気鋭青年教育者として、新教育を自ら実践していった。 登山遠足野営活動雪中行進、雪投げ合戦氷上運動、さらに、長七の主唱諏訪郡連合大運動会開催するなど、前例のない学校活動次々と打ち出していった。試験廃止し休憩時間職員室出て校庭出て児童運動した同年秋には、宮沢国穂、三村安治守屋喜七と共に諏訪教育大会開催。長七は「体育運動の奨励活動主義教育」との題目論じ従来形式主義厳粛主義教育排することを主張したこうした新教育実践は、旧来の教育思想を持つ教育者衝突生んだ。長七は「主義方針現任校長意見ヲ異ニシ為ニ往々指揮命令遵守セス」とされ、1899年下諏訪高等小学校転任させられた。しかし、転任でも、新教育を貫く長七と、旧来の教育思想を持つ校長とで衝突し半年岡谷高等小学校転任させられた。ここでも教育思想が相いれず、次第孤立していった長七は、辞職余儀なくされた。 あまりにも革新的な教育と長七の言動諏訪郡内に知れ渡り諏訪郡内での受け入れ校は皆無であった教師職を解任され危機であったが、群外の小諸小学校伴野文太郎助けを受け、1900年小諸高等小学校着任教育界追放される危機脱した。 長七は、年度途中より校長職に就いた佐藤寅太郎理解もあり、小諸高等小学校でも変わらず新教育次々と実践していった。当時教え子には、小山邦太郎(後の陸軍政務官小諸市長)らがおり、わずか1年間教師生活ながら、その後小諸時代教え子との交流は「立志同級会」として長く続いた1年間小諸生活の後、長野師範学校校長からの推薦得て念願東京高等師範学校への進学叶えた。長七は小諸を去るにあたって3年間の信州での生活や雄大な自然への思い込め、「小諸を去る辞」を詠んでいる。

※この「諏訪・小諸での教育実践と対立」の解説は、「伊藤長七」の解説の一部です。
「諏訪・小諸での教育実践と対立」を含む「伊藤長七」の記事については、「伊藤長七」の概要を参照ください。

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