評価・知名度・顕彰などについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 03:41 UTC 版)
「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の記事における「評価・知名度・顕彰などについて」の解説
ワルシャワ・ゲットー蜂起そのものは失敗におわったが、決して無意義ではなかった。ナチス・ドイツの圧政に対してユダヤ人が初めて武器をとって抵抗したという輝かしい記憶をユダヤ人たちに残したのである。この記憶はユダヤ人民族国家イスラエルの建国に向けて大きな原動力となったのである。イスラエル建国後、ゲットー蜂起についての研究を行うロハメイ・ハゲタオット (he) が同名のキブツに創設されている。また、ガザ地区北にあるキブツ「ヤド・モルデハイ (he) 」は、モルデハイ・アニエレヴィッツの名前から名づけられたものである。 しかしながら日本においてはワルシャワ・ゲットー蜂起は知名度が低い事件であり、しばしば1944年のワルシャワ蜂起と混同されている場合もある。2つの出来事は時間的にも異なり、全く目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、強制収容所での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部であった。とはいえ、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることもできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したという点や、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100人近い人数)が後のワルシャワ蜂起で国内軍や人民軍の一員として戦った点から関連があるという意見も存在する。 1970年12月7日に西ドイツ首相であるヴィリー・ブラントは、当時共産党独裁体制下にあったポーランド人民共和国を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。しかし、このことは戦後の共産党独裁下のポーランド人民共和国においてはほとんど公表されなかった。共産党独裁体制下のポーランドにおいてはホロコーストやワルシャワ・ゲットー蜂起に関する事実はほとんど語られず、かろうじてゲットー英雄記念碑が建てられたぐらいであった。しかし、東欧革命によってポーランドの共産党独裁体制が崩壊すると、ポーランドとイスラエルは国交を締結。1991年5月にワレサ大統領がポーランド大統領として初めてイスラエルを訪問し、イスラエル国会においてポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認めて謝罪を行った。
※この「評価・知名度・顕彰などについて」の解説は、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の解説の一部です。
「評価・知名度・顕彰などについて」を含む「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の記事については、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の概要を参照ください。
- 評価知名度顕彰などについてのページへのリンク